あれもやり これもやりしの 旅の果て 浮世の月に かかる雲なし

 

                主の年2024年2月26日23時58分 柏木義邦

 

 

 

桜待つ 春はあけぼの 薄曇り バラ色の空 一人たたずむ

 

                主の年2024年3月10日20時19分 同人

 

 

 

さて、前回、僕は近所の羽根木公園の梅の花の様子をチラっと写真でお見せしながら、さりげなく「ノストラダムスのマルスの支配」についての預言の秘密の一部を掲載しましたが、それをお読みになられた方々は、どのようなご感想をお持ちになられましたでしょうか?

 

結局、信じる者は救われる、という単純な話ですが、が、実に信じることは難しいと思います。

 

 

もしもかれらの信じたことが信じうることであったなら、信じなかった者がいかに愚かであるかは明らかである。しかし、信じがたいことが信じられたのなら、この信じがたいことが信じられたということはまったく信じがたいことである。

             聖アウグスティヌス著「神の国」第二十二巻 第五章

 

 

で、何を信じるというのか、と言えば、それは真の救世主イエス・キリストの言葉であり、その預言ですが、今の日本では、いや世界では、「それは、私は信じています」ということを公言する人は少なからずおりましても、では、「ノストラダムスの預言は、どうか?」と問いますと、「それは嘘でしょ?」「予言は外れたでしょ?」と、否定や曖昧な答えを送るものが多く、また「その預言は聖書の預言と結合しているのだ」と言えば、それを信じる者はさらに少なく、いやむしろそんなことを言えば、「今時、何を言っているんだ?それはもう終わった話だろ?」などと言われ、「馬鹿じゃない?」とされるのがオチですが、あげくの果てには、嘲笑され、「単なる変わり者」になるか、はたまた「狂人」の烙印を押されること請け合いでありまして、自分も随分と酷い目に遭いましたが、が、しかし、ここに、それをまじめに信じている男が二人おりまして、それは僕と僕の実の兄の二人なのですが、そのために我々は、「告げられた終末、世界の終わり」のための準備を開始し、北海道の山奥に、避難場所である「原生林の森」を含む、約7万坪の土地を離農した農家から安く買い受け、そこにこつこつと現代のノアの箱舟を建設中なのですが、そんな昨今、皆様はいかがお過ごしでしょうか?

 

こういう準備を開始している人々は、実は我々だけでなく、そういう人々は世界に大勢おり、「プレッパー(Prepper)」などと称して、ややブームになっている感がありますが、では、その避難場所をどこにするのか、という考察は非常に大事でありまして、例えば、それは関東近郊でもいいのでは、などと甘く考えていると、痛い目に遭うと思いますが、そう思わずに、その地を北海道の某所に選び、そこに無事に辿り着く人々は、実に幸いだと思います。

 

何故なら、生き残って、その後の世界、「神の国」を見ることになるからです。

 

こう書きますと、自分を賢いと思っている、うぬぼれている人ほど、反発すると思いますが、そういう人たちは、たいていは金持ちであり、金銭を愛しており、この世の春を謳歌していて、勉強の時間はほとんどなく、日々、山海の珍味や高級な酒におぼれ、その彼らの生活を支えている貧しい人々の苦労などは、これっぽっちも考えておらず、むしろ、「そういう貧乏人は本人の努力が足りないからだ」、とさえ公言し出す始末で、しかも、そういうただ金のある無学な馬鹿を持ち上げて、やいやいやっている人々の数は信じられないほどに多く、いやいや酷い世の中になりましたが、しかし、その彼らに残された時間は少なく、まもなく、そういう人々の大部分は、ほぼ飢えたり、病気になったり、悪い人間に始末される運命にあり、それは必然であり、それこそが、「不滅の恐るべき神の厳しい裁き」だと思うのですが、この文章をお読みになられた方は、それは極端な考えだ、とお考えになるでしょうか?

 

 

金持ちは自分を賢いと思い込む。

弱くても分別のある人は彼を見抜く。

             箴言 28-11

 

 

自分を賢者と思い込んでいる者を見たか。

彼よりは愚か者の方がまだ希望が持てる。

             箴言 26-12

 

 

しかし、富んでいるあなたがたは不幸である、

あなたがたはもう慰めを受けている。

             ルカによる福音書 6-24

 

 

重ねて言うが、金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。

             マタイによる福音書 19-24

 

 

上の聖書の言葉を読むと、自分などは、インフルエンサーなどと称して、毎日、くだらない自説を阿呆みたいに主張し、誰かの感想に過ぎない「エビデンス」を持ち出して、すぐ「フェイク」だの、いや「ファクト」だの、「デマ」だの、「陰謀論」だのと言って、「議論で相手を打ち負かすことだけ」を常に考えている彼や、もしくは「曖昧な、霧のような不確かな知識を口にして、相手を煙に巻く」ことをする彼らの顔が思い浮かびますが(そういう発言には聖典の言葉の裏付けがなく、ただ自分が見聞きしたことを口にしているに過ぎない、鼻で息をするだけの肉人間の感想です)、そういう人々などが「滅び」の対象なのであり、「貧しくとも主を信じる者」たちこそが、「救い」の対象であって、その事実を、真の救世主や数々の預言者やノストラダムスらが共通して預言したのですが、そしてタイトルにありますように「我々のアダムは勝利した」のですが、ここで、それが「過去形」であることにご注目していただき、次の聖アウグスティヌスの言葉をお聞きください。

 

 

主の助けのもとに約束を達成するために二つの巻がわたしたちに残されている。そのうちのひとつは悪しき者たちの罰にかんするものであり、他のひとつは義しい者たちの幸福にかんするものである。これらの巻において、神がゆるしてくださるかぎりとくに反駁されねばならないのは、神的な預言や約束を非難して自分自身の知恵を誇ってみずからを悲惨なものとするようにおもわれ、また、信仰の健全な栄養を、偽りの笑うべきもののように軽蔑するところの人間的な議論である。他方、神にしたがって賢明な者たちは、人びとにとっては信じがたくおもわれても、しかし、その真理がすでに多くの仕方で確証されている聖なる書に含まれているすべてのことを、全能の神のとくに真実なる議論として保持するのである。そのような人びとは、神がけっしてかれらに偽りを語ることはできなかったということ、そして、不信仰な者にとっては不可能であるところのことをなしうるということを信じているのである。

             聖アウグスティヌス著「神の国」第二十巻 第三十章

 

 

神は、その予知と共に永遠であるその意志にしたがって、天においても地においても欲せられたすべてのものを、過去や現在のもののみならず未来のものをもすでにつくられた。

             同著 第二十二巻 第二章

 

 

上にありますように、未来はすでにつくられており、それゆえに「我々のアダムは勝利した」のであり、つまりは「真の救世主イエス・キリストは勝利した」ということになるのですが(我々のアダムが主イエス・キリストを意味することは過去記事をご参照ください)、そして、無慈悲な金持ちたちは、貧しい人々に自分たちの持ち物を見せつけて喜んでいる者たちは、「火に焼かれて滅び去るのであり」、それが「不滅の恐るべき創造主」のよくご計画され、よくご配慮された「よき処置」、すなわち「未来」であり、「最後の審判」であり、「ノストラダムスの七月」なのです。

 

どうでしょうか?

まだ、信じられない?

 

ならば、こうしましょう。

 

 

見よ、主の怒りの嵐が吹く。

嵐は荒れ狂い

神に逆らう者の頭上に吹き荒れる。

主の激しい怒りは

思い定められたことを成し遂げるまではやまない。

終わりの日に、あなたたちはこのことを悟る。

             エレミヤ書 30-23

 

 

主はその激しい憤りを武器とし、

敵を懲らしめるために、被造物を武装させられる。

             知恵の書 5-17

 

 

神は恐るべき姿で直ちにあなたたちに臨まれる。

             知恵の書 6-5

 

 

また、天の国は次のようにたとえられる。網が湖に投げ降ろされ、いろいろな魚を集める。網がいっぱいになると、人々は岸に引き上げ、座って、良いものは器に入れ、悪いものは投げ捨てる。世の終わりにもそうなる。天使たちが来て、正しい人々の中にいる悪い者どもをより分け、燃え盛る炉の中に投げ込むのである。悪い者どもは、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。

             マタイによる福音書 13-47

 

 

さて、以上のようなことですので、信じる者は今持っているものを大事にして、この厳しい艱難の時代を生き残り、やがて来る「ノストラダムスの幸福なマルスの支配」(これも過去記事をご参照ください)の時代をともに迎えられますよう、お互いに身を慎んで生きて行きましょう、とお伝えして、この投稿を終わります。

 

それでは、また来週の木曜日に、お会いしましょう。