主は激しい怒りを鋭い剣とし、

宇宙は主に味方して愚かな者どもに戦いを挑む。

                知恵の書 5-20

 

 

 

王たちはやって来て、戦った。

カナンの王たちは戦った。

メギドの流れのほとり、タナクで。

だが、銀を奪い取ることはできなかった。

もろもろの星は天から戦いに加わり

その軌道から、シセラと戦った。

キション川は彼らを押し流した。

太古の川、キション川が。

                士師記 5-19

 

 

 

かくて、帝堯は年老いたので、舜に命じて天子の政を摂行させ、天命にかなうかどうかを観察することにした。舜は、璿璣・玉衡(ともに渾天儀)によって天文をただし、日月と木火土金水の五星の順序ただしい運行をみさだめ、それに則って政治の体制をととのえた。

                司馬遷著 史記(本記)

 

 

 

天文三人。星暦を司り、風気を候ひ、時日を推し、符験を考え、災異を校り、天心の去就の機を知ることを主る。

                太公望呂尚著 六韜(竜韜)

 

 

 

もう一つは星辰その他すべての運動運行が、万有をコスモスたらしめたヌゥスの支配下にある限りにおいて、いかなる規律を保っているかということである。

                プラトン著 法律

 

 

 

じっさい、エジプト人たちは、かれらが文字を知る以前に、すなわち、イシスがその地へやって来てそれを教える以前に、著しい学識に習熟していたなどとあえて主張する者はいないのである。さらに、知恵という名でよばれているところの注目すべき学識についても、主として占星術やそれに類する他のことがらの教授以外に、どれほど大したことをしたのであろうか。それらはつねに、真正なる知恵によって人びとの心を照らすというよりは、むしろ人びとの才能をはたらかせるのに有効であったのみである。

                アウグスティヌス著 神の国

 

 

その後

わたしはすべての人にわが霊を注ぐ。

あなたたちの息子や娘は預言し

老人は夢を見、若者は幻を見る。

その日、わたしは

奴隷となっている男女にもわが霊を注ぐ。

天と地に、しるしを示す。

それは、血と火と煙の柱である。

主の日、大いなる恐るべき日が来る前に

太陽は闇に、月は血に変わる。

しかし、主の御名を呼ぶ者は皆、救われる。

主が言われたように

シオンの山、エルサレムには逃れ場があり

主が呼ばれる残りの者はそこにいる。

                ヨエル書 3-1

 

 

 

上の引用の数々は、それぞれ東西の知者たちの、天体の運行を観察し、その去就を知ることの大切さを教えた、優れた言葉の数々だと思いますが、前回の記事で僕が引用した、聖アウグスティヌスの「火星」にまつわる発言や、神の人モーセの、不滅の恐るべき偉大な創造主からの「星」にまつわる言葉を載せたのも、勿論、すべて意味のあることですが、要は、「知恵ある者」たちは、皆、「星の運行の意味」を知ることが、「神学」と「哲学」の相違に関わらず、最も大切な「学問」である、ということを知っていた、ということです。

 

最初の哲学者とされるギリシアのミレトスのタレスなどは、その学問に熱中するあまり、夜空を見上げながら溝に落ちた、そうですが、そのお陰で彼は、その学問の成果として、オリーブの豊作を予見し、もって町中のオリーブの圧搾機械をすべて借り占めて、その後それらを高値で貸し付けて大儲けをしたそうですが、そして長年の貧乏生活から脱出したようですが、そういう実利的な「占星術(占星学)」の利用法も楽しいものですが、それよりも大切なことは、それによって、幸福を追求し、そしてそれを実現し、そして「心身の平安」を得る、ということが、最も大事な事なのでありまして、そのために自分も、日夜、星に関する考察、その時々の星の配置図(ホロスコープ)の作成、は欠かしませんが、世間の一般的な常識では、そのような配慮の必要性はない、と主張する人々の方が多いように思われます。

 

例えば、医聖のヒポクラテスは、「占星術の知識なき医者は、自ら医者と名乗る資格はない」としたそうですが、現在の医学では、この言葉は迷信となっているのでしょうか?

 

天文学者のケプラーは、「哲学は、したがってまた真の占星術は、神のはたらきの証左であり、したがって神聖にしていささかも軽々しい事柄ではなく、余は余なりにその面目を恥しめたくないと思うのである」と言ったようですが、この言葉もつまらない余談になるのでしょうか?

 

肝心のノストラダムスは、「天文学的な回転による人類共通の利益である神の本質(essence)」と書いていますが(セザールへの手紙)、このように昔の聖者、知者、賢者らは、皆一様に、「天台」、つまりは「天における星」の、その運行の状態、その未来に、ことさら気を使ったものですが、現代では、愚かな者ほど、これを知らず、占星術(占星学)を迷信扱いし、さらには上から目線で、「星占い?馬鹿じゃない?」とやるものですから、ホント、困ったものです。

 

勿論、「今日の魚座の運勢は?」などとやっている、無学な者たちを喜ばせるための「星占い」は、問題あると言えば、問題で、そこにまったくの真実がないわけではないとしても、ノストラダムスが、その預言集の第六章の最後で、わざわざここだけラテン語で、すべての「占星術師、愚か者、野蛮人」を同列に並べて、「遠ざかれ」とし、また「他の方法の、正当な行い、神聖な行いをせよ」と警告しておりますように、いわゆる「一般的な占星術」「星占い」の手法には真理はなく、それは、彼らが、「星に原因がある」としているからでありまして、前回引用した聖アウグスティヌスの言葉にもありますように、星は、ただ「印、徴」を見せているだけで、決して原因ではなく、例えば、刀や包丁が傷害の原因ではなく、単にそれは、その手段、道具として存在しているだけでありますように、「火星や土星が、どこどこにあるから、今あなたは不幸なのですよ」というのではなく、不幸なのは、その人の「考え方、行い」に原因がある、ということを理解すべきなのでありまして、それは真の救世主イエスの言葉にもありますように、

 

 

外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである。

                マルコによる福音書 7-15

 

 

ということを理解して、その人の不幸の原因を外にある星に求めるのではなく、中にある自らの不正に目を向けるべきである、ということです。

 

そして、それは圧倒的に正しい行いをすべき、ということでもあり、そしてそれは、悪を行うことをやめ、善を行うことを学び、貧しい者を憐み、いたわり、みなしごを保護し、やもめのための公正な裁判を実現せよ(イザヤ書1-17)、ということなのですが、このように書いても、まだ、「占星術など嘘だ」とか、「いや、それはまやかしだ、単なる物体である星には何の意味もないはずだ」とか言う人々は、それこそ、ここから遠ざかっていてほしいものです。

 

星に関する話題の例を挙げれば、このようにキリがありませんが、この記事のタイトルにあります「ノストラダムスのマルスの支配」を理解するためには、最低でも、上にある引用の言葉の数々の真の意味や、今自分が説明した「原因」の出所が、どこにあるのかを理解できる「知性」「予備学問」が必要なのでありまして、それがない者に、いくらノストラダムスの預言を説明しても、一切無駄であるだけでなく、ノストラダムスが言うように、「踏みつけて、噛みついて来る」でしょうから、自分も言葉選びは慎重に行わなければなりませんが、その「マルスの支配」の真の意味についての詳しい説明は、今回の記事も文字数がだいぶ多くなってきましたので、この続きはまた次回に、ということにしたいと思います。(別に意図的に話題を引っ張っているというのではありません。このように複雑で、慎重な判断を要する難しい問題は、一度に頭に入る内容には限度がある、と思っているからです。しかし、これで、この問題に関する予備知識の説明は充分だと思われますので、次回、いよいよ、マルスの支配とは、それは、すなわちインマヌエル、火、血、鉄、剣、赤、アダム、そしてエル・ギボール「力ある神」のことである、との小論を展開したいと思います。)

 

そういうわけで、また来週の木曜日に、当ブログにお越しくだされば幸いです。

 

では、それまで、皆様ご機嫌よう。