また目を上げて天を仰ぎ、太陽、月、星といった天の万象を見て、これらに惑わされ、ひれ伏し仕えてはならない。それらは、あなたの神、主が天の下にいるすべての民に分け与えられたものである。

                 申命記 4-19

 

 

また、星はそのようなことをひきおこすのではなく、ただ表示するだけであり、星の位置というのは、いわば未来のことをあらかじめ語る告知であって、じっさいにそれはひきおこすものではない(凡庸でない学者たちはそのように考えていた)といわれるなら、それは占星家たちのふつうのいいかたとはちがっているのであって、占星家たちはたとえば「火星がその位置にあるのは人殺しのしるしだ」とはいわずに、「人殺しの原因だ」という。

                 アウグスティヌス著 「神の国」第五巻 第一章

 

 

現在はローマの朔日はギリシアのそれと全く一致していない。ロムルスが都市を建設した日はちょうど[四月の]三十日に当るといわれる。またこの日に蝕を伴う月と日のめぐり会い(日蝕)がおこって、テオスの叙事詩人アンティマコスがそれを見たと考えられており、それは第六オリュンピア紀第三年(前七五四年)に当っていたといわれる。ローマ人のうちで歴史に最も博学な人、哲学者ウァローの時代に、その友人にタルティウスという人がいて、哲学者である上に数学者でもあったが、思索にひたるために占星術の研究に身をいれ、その道に秀でていると考えられていた。ウァローはこの人に、幾何学者が問題の解法を示すように、ロムルスについて伝えれている出来事から推理を行なって、もってロムルスの誕生の日や時刻を算定するという問題を出した。というのは、人間の誕生の時を知って一生を予言するのも、一生が与えられて誕生の時を求めるのも同じ学問だからだ、というのである。タルティウスはこの要求をやってのけた。そして、ロムルスの出会った事件と、なしとげた事業を見渡し、彼の生きた時や死に様やそうしたすべての事柄をつき合せて、実に大胆に男らしく、ロムルスが母の胎内に宿ったのは第二オリュンピア紀第一年(前七七二年)の、エジプト暦コイアク月の二十三日の第三時に当り、皆既日蝕がおこった時であり、眼に見える出生はトーユト月の二十一日の日の出の時に当ると発表した。そして彼がローマを建設したのはファルムーティ月の九日の第二時と第三時の間に当るが、その理由は、都市の運命は人間の運命と同様に決定的な時を持つと考えられ、その時は最初の起源から星座の停止点を推定して見出すことができるからだとした。これらのことや多分これに類する事柄は、神話的なところの故に読者を煩わせるよりは、むしろ新奇さと異常さによって諸君を引き寄せるであろう。

                 プルタルコス著 「ロムルス」

 

 

上の三つの引用は、それぞれ「ヘブライの知恵」「キリスト者の知恵」「ギリシアとローマの知恵」だと思いますが、「ノストラダムスのマルスの支配」を理解するためには、これらの「知恵」が必要でありまして、その「知恵がない者」に、いくら「マルスの謎」、「ノストラダムスの預言の謎」を説明しても、一切、「無駄なこと」だと思いますが、それは、「マルス(Mars)」とは、まずローマ神話上の概念であることを理解しなければなりませんが、それらに関する書物を一切読まない者たちに、一体、何を伝えられるのか、という問題に帰結する、ということです。

 

また、同時にそれは、ギリシア神話の「アレース(Ἄρης)」と同一の概念であることも理解しなければなりませんが(シンクレティズム←クレタ島の歴史に学ぶべし)、そうなると、読まなければならない書物は膨大で、学ばなければならない知識にはキリがありません。

 

そうなりますと、「σχολή(スコレー、余暇、ひま)←スクール、学校の語源」が決定的に必要となりますが、金持ちたちは別として、貧しい者たちに、どこにその「ひま」、「勉強する時間」「本を読む時間」があるというのでしょうか。

 

だから、ノストラダムスの預言の解読は、まったく、正しく進まないのです。

 

金と暇のある富裕層は、たいてい、「遊び」に忙しく、また「この苦に満ちたコスモス(この世)からの脱出法」などは、ほとんど考慮しておりませんので、いやむしろ、もっともっと現世で遊んでいたい、と思っているでしょうから(勿論、何にでも例外はあります。水に浮く石もあれば、水に沈む木もあります←軽石、黒檀など)、そうなると、いよいよ、ノストラダムスの警告は、「霧の中」「密雲の中」でありまして、そして、現在ほとんどすべての人が、彼にまつわる、嘘、偽りを語っており

(よく知らなければ、黙っていればいいと思いますが)、彼と彼の預言を「断罪」して、「ノストラダムスの予言は結局はずれたよね」などと馬鹿丸出しのセリフを吐きながら、「お手製のエビデンス」に従いつつ、好き放題に生き、そして今日の「終わりの時の直前」迎えているのが現状だと思います。

 

と言っている自分はどうか、と申しますと、僕もまた、「同罪」でありまして、本当は、こんなブログを書いている暇があるなら、勉強せい、ということでありますが、しかし、自分なりには、この「知恵」の獲得、つまりは「律法と預言、詩と箴言、そして福音」の理解のために、それなりの時間を使って生きては来た、と思っておりまして(自分もだいぶ歳をとりました)、なので、こんな拙い文章でも、少しは発表する余地があるのでは、と考えております。

 

というのも、聖アウグスティヌスが言いますように、「見いだしたものを出し惜しみをして他者に知らせないようであってはならない(神の国-第十九巻第十九章)」でありまして、またベン・シラが言いますように、「学問を大切にする者は、また、自らも語ったり書いたりして、一般の人々の役に立ちうる人でなければならない(シラ書1-5)」でありますから、なので自分も、今まで学んで来たこの小さな成果を、ここでお届けしたい、と思い、このような文章を綴っております。

 

と、いろいろ書きましたが、そして「時間」、「終わりの時」は差し迫って来ておりますが、こんなごく限定的な話題が中心の自分のブログでも、現在ごく少数の人が継続的に訪れて来てくださっておりますので、なのでそれらの人々と共に「生き残り」とは何かを考えるためにも、この後も引き続き「マルスの謎」に迫って行きたいと思います。

 

が、今回もだいぶ文字数を重ねましたので、続きはまた次回に、ということにしたいと思います。

 

それでは、来週の木曜日に、またお会いしましょう。