私が産まれたのは岩手県三陸の釜石。 

そこから車で30分ほどの大槌が

母方の郷里。

 

4歳まで親と離れ、

祖父母に育てられた大槌は

その後も父の転勤に伴う

引っ越しが多かった私にとって、

唯一「変わらずに戻る」故郷。 

 

当時、 東京滞在中に起こった大震災。 

パニックになりそうな頭で、

地震情報をネットで調べたら 

岩手は直撃。 

 

 

祖父は20年近く前に癌でなくなっているので 

祖母が義理の妹である

私の大叔母と住んでいる

郷里の家に電話をかけると 

 

「津波注意報が出ててね、

おばあちゃんはもう避難させた。

もう水が見えるから、

私ももう出るね。

話ししたいことはあるけど、

もう電話切るからね」と、大叔母。

 

「気をつけてね、

おばあちゃんをよろしくね、

おばちゃんも無事でいてね!」と叫んだら 

電話の向こうで微笑みが聞こえた気がした。 

 

その時は、

あの地震が大震災といわれるほどのものとも

知らなくて、 「避難する」とだけ聞いて安心した。 

 

でもそのすぐ後、

ネットのニュースで

釜石と大船戸の津波の映像が流れた。

その上、大槌は、

大火事に見舞われ、

避難者は避難場所を移らなければならず、

自治体とは連絡が取れなくなったと聞こえた。 

 

大叔母と話をしたのは3時10分ちょうど。 

釜石の津波の映像が3時11分に撮られたもの。

 

。。。大槌に津波が来るのは、

釜石よりも遅いはず。。。。

でも、90を過ぎてる祖母と、

80半ば過ぎの大叔母が

逃げ切ってくれているのか。。。。 

 

親代わりをしてくれる私の叔母は 

「希望は持ってもいいけれど、

期待はしちゃいけないよ。

何を見ても聞いても動揺しちゃいけないよ。

天災なんだから、

自然の力ならしかたないんだから、

受け入れるしかないんだからね」と、

現実的なアドバイスをくれた。 

 

心の隅にあるやるせなさと切なさと、

言いようのないもどかしさを感じて、 

「岩手」「三陸」と聞くたびに

頭のどこかが鈍くなるような

痛くなるような気持ちを感じた数日間。 

 

でも13日の午後、

叔母から連絡が入り、 

祖母と大叔母は安全で、

叔父のいる盛岡にいる、と聞いた。 

 

話によると、大震災翌日の12日 

叔父は盛岡から大槌まで

運転してきたけれど、

生れ育った実家が

板一枚も残っていない状態になり、

町が完全壊滅で見る影もないところで

あきらめて帰ったらしい。

 

けれどもその後で、

叔父が叔母と話をし、

3時10分に避難した、という

私の話を聞いて、希望を持ち 

再度翌日盛岡から大槌まで運転し、

二人を探し出したということだ。 

 

あの時、

インターネット電話の

スカイプだったから運よく繋がり、 

ギリギリのタイミングで安否確認ができた。

 

普通の電話線だったら

繋がっていなかった。 

 

ストイックに

非感情的に割り切ろうとは思っていたけれど、

 見つけてくれて、

見つかってくれて、安心し

「おまえが電話かけてくれていたから

希望が持てた。ありがとう」

「あんたに命を助けてもらったんだね。

これからも元気で生きないとね」 と言われて

堰がきれて号泣した。

 

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あれから13年、三陸にいた

ほとんどの親族は

あの津波で亡くなってしまっていた。

 

私の祖母と大叔母は数少ないサバイバー。

その祖母も数年前に亡くなった。

 

生き残ったことに当時は感謝しながらも

目の前で広がる悲劇になすすべもなかったことで

心に傷を負い、

それまでの生活が一変してしまった事で

理不尽さを感じる老後になったことの

 

何が良かったのか、全くわからない。

 

生き延びてくれて良かったと思うことは

単なる私のエゴなのか愛なのか

今も答えが出ない。

 

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いつ起こった震災であっても

 

大切な方を

なくされてしまった方に 

お悔やみの気持ちは 

言葉で表すことができません。

 頭を下げて喪に服すことしかできません。 

 

避難所にて不便な生活を強いられている方を

応援しています。 

 

一人でも多く、 

大切な人の無事確認による

喜びの涙を流す人が増えてくれたらいいと、 

願わずに、祈らずにいられません。