愛と喪失の統合〜寂しさの中にある愛とつながるということ〜 | 傷だらけの人生を愛ある人生に

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愛着の核×女性性×男性性【心理×身体×無意識】
癒着・共依存/見捨てられ不安/孤独感/家系の再演/セクシャリティ解放→回復/パートナーシップ問題改善



心理カウンセラー奈美ですサングラス


「寂しいのにあったかい」

って感じられるとしたら
ほんまか?って思うかもしれん。


"寂しさの中にある愛"


って、そんな感じなんだよ。


寂しいけど、安心する。
寂しいのに、安心する。


感情をめいっぱい感じた後
寂しさを解放した後って
愛しか残らんやん?って私は思う。


喪失を感じて寂しいとしても
"私という存在"に欠損はない。

寂しいけど私は何も失ってない。

寂しいけど私は孤独ではない。

"ここ"に確かに得たものがある
私の中に残ったものがある。


そういう感覚。


寂しいとしても愛とつながってると
不思議な安心感がやってくる。

寂しいのに苦しくない
でも涙は溢れてくるってやつ。


自分の中にある愛を感じると
苦しみは少しづつ溶けていく。


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私たちは、関係性の中で傷付く。

でも、関係性の中で傷は癒える。


例えば、小さい子がお気に入りの
ぬいぐるみをなくして泣くのも
「ぬいぐるみとの関係」を持つから。


生きてるかどうかは関係なくて
その存在が自分に与えた影響が

愛着が、喪失の傷を作る。


その対象との関係性による
"確かに感じたつながり"が
心の痛み、愛と喪失を感じさせる。


なら、会話したり温度を感じて
共に泣いたり笑ったりした関係性が
なくなってしまうと、尚更傷付く。


でもそれが、喧嘩別れでもなく
誰も悪くない別れだったとしても

「もっとこうしとけばよかった」

っていう後悔やタラレバは付き纏う。



「寂しさ」という、自分と誰かの
「つながり」のあたたかさは
そこに確かに愛があった証ではある。

ちゃんとつながってた
だからこそ、寂しい。


別れには痛みを伴うものだけど
「怒り」「寂しさ」「悔しさ」とか
あらゆる感情を感じきったあと

そこに残るのは純粋な愛。


あまりに大きな愛着対象だと
ダメージも大きくなるものだけど

そこで感じたものって本当は
自分の中に残るものなんだよね。


「離れても消えない愛」
「離れてもつながる愛」


例えその対象がもうどこにも
いなくても、触れられなくても
もう二度と会話ができなくても

そこで感じた安心感の温度や
つながり、愛という感覚は


"その対象がいないと感じられない"


と感じるうちはまだまだもっと
喪失を味わった方がいいこともある。


寂しさ+自己否定+存在価値
だと、喪失はただ痛いものになるけど
感覚はただ、感覚でしかない。


感覚に貼り付いた思考ラベルは
(自己否定など)

喪失の痛みを増幅させる。


もちろん、あまりに大きな感情は
無意識に抑圧したり、麻痺したり
人の身体って賢いものだけどね。



自分にとってどれだけ大切だったか
噛み締める時間は大切なんだよ。


どれだけその対象に救われてきたか
どれだけその対象を愛してきたか


外側にある対象に感じるものって
自分の心の鏡みたいなもので

"外で見つけたものを内側で育てる"

っていうプロセスがある。


鏡がなくなっても、"顔"は消えない。
"自分"はここに残る、感じたものも。


人によってはアイデンティティが
崩壊するほどの喪失だとしても
外側の誰かに貼り付けていた愛が

「今もここにある」

というのを学ぶためでもある。



理屈じゃないんだよな、こういうの。


頭ではいくら"わかってる"としても
神経レベルで感じるものは別物。


「大好き」「安心する」「一緒にいたい」


頭で考えるよりも早く反応する。
人って、身体が先に反応するから。


誰と誰の関係性でも、唯一無二
世界でひとつだけの関係性だから

"自分"との関係は消えない。


その対象との間で感じた愛だけは
あなたの中で感じたものは、消えない。




「もしあの人がいたら何て言いたい?」

そう問いかけることがある。


初めは、痛みを感じるかもしれない。



「なんで急にいなくなったの?」

「なんで置いていったの?」

「もっとちゃんとお別れしたかった」

「また一緒に笑い合いたい」 

「ほんまは戻ってきてほしい」

「寂しい、あんたがいないと無理」

「ずっと一緒にいたかった」

「ほんまに大好きだった」



寂しさという素材から愛を編んだ
色んな言葉が紡がれていく。


一通り怒って、悔やんで、泣いて
喪失をじゅうぶんに味えたとしたら

そこにある執着がほどけたとしたら



「これまで一緒にいてくれてありがとう」

「出会ってくれてありがとう」

「大好きだった、これからも大好き」



めちゃくちゃ寂しいんだけど
寂しさの中に愛がちゃんとある
ってことを感じられてまた

涙が出てきたりするんだよね。


人ってほんまにそういうもん。


よく「感謝しましょう」とか言うけど

自然と溢れてきた時に感じる
感謝という愛の尊さは何とも言えない。


だからこそ、言うだけなら簡単な
「感謝しましょう」は頭だけでなく
自然と内側から溢れてきて
身体ごと感じられた時に"わかる"。



めちゃくちゃ寂しくて
めちゃくちゃ泣いて
めちゃくちゃ大好きで

そんなあなたを見たら
 

「あの人はなんて返してくると思う?」


って問いかけることもある。


「出会ってくれてありがとう」


って、あの人も思ってるとしたら?
あながち間違いじゃないからね。



「ありがとう、あの人がいたおかげで」
「ありがとう、あなたがいたおかげで」


本気で泣けるほどのあなたの愛を
誰が迷惑に思うものか。

あの人に届くかどうかじゃない。



自分の本気の愛をもし感じられたら
そんなことすらどうでもよくなるもの。

「こんなに愛を感じられる私」

というだけでまた"つながれる"から。



関係性が終わったように見えても
愛は消えるんじゃなくて、形を変える。


別れが人を強くするってのは
漫画の中だけの話じゃない。


寂しいのに、めちゃくちゃ寂しいのに

「この愛があれば何とでもなる」

っていうあたたかさを感じられるのは
「愛と喪失」が統合された証。


あの人の愛、だけじゃなくて
外側にあったように見えたものを
自分の中に回収していくこと。


「ちゃんと"ここ"にある」


って、身体ごと感じられること。


これも立派な統合体験。
だから涙を伴う。


自分が悪かったのか?とか
自己否定や自責の涙ではなく

「これからもここにある」
「ちゃんとここにあった」

身体ごと本気で愛を感じられる体験。


つながりがなくなったように見えても
愛だけは私たちの中から消えない。


愛があるから苦しいんだって
一般的には思われがちだけど

愛は痛みを伴わない。


喪失の痛みは、その愛が一時的に
自分の中から喪失される感覚なだけ。


あの人がもういなくても
あの人を想うその愛があるだけで
また前に進めるようになるもの。

それまでは、めいっぱい泣いていい。


いつまでも泣いてたらあかんよなとか
私はそれは全然ダメだと思わん。


しんどいのは、自分のせいにすること。


ちゃうちゃう、何も悪くない。



ただ大好きだっだけ、やろ?



寂しさも、「大好き」も
めいっぱい認めて感じたら
スッキリするもんだから。


むしろ、「寂しい」を抑えたら
「大好き」まで痛みに分類されて

また誰かを「大好き」になった時に


"またあの寂しさがやってくるかも"


って愛を自ら遠ざけるかもしれない。



愛と喪失を同時に抱ける成熟さは
そこで感じる愛の尊さを感じられる。


ついつい私たちは、外側にある愛を
誰かに向けてもらうことを求めるし
子供の頃はみんなそうなんだけど

もらったものを自分のものとして
内側で成熟させていくプロセスは


生きてるうちに何度も訪れるから。


喪失はそれを最大限に感じられる
ビッグイベントでもあるから
愛の裏側にある感情も最大限に
出てきてしまうけど


感情は表裏一体。


ネガティブだとされる感情を
めいっぱい感じられる人が

ポジティブ感情、愛も幸福も
めいっぱい感じられるんだよ。


寂しさの中にある愛を受け取れた時
喪失によって空洞になったように
冷えた心が、あっかくなっていくからね。



外側にあったように感じたものは
自分の内側にあるからこそ感じる。

「投影」は幻影じゃない。


ちゃんと"あなたの中にある"もの
自分の中にあるものしか投影しない。


「あの人がいたからこそ」
「私がいたからこそ」
やで。


あなたの中で感じてるものは
あなただけのもので奪われない。
消えない、失わない。
隠れてしまうことはあっても。


今度はまた、次の章であなたが
回収した愛を誰かに渡す番やで。



本気で愛して
本気で泣いて
本気でつながった


その尊さは消えない。


寂しいのは、つながりがあったから。
寂しいのは、そこに愛があったから。


「出会えてよかった」


そんな風に思えるのなら
自分自身の愛の尊さにも
あたたかさを感じてる証。


寂しいって、悪いことじゃない。



心理カウンセラー奈美