傷だらけの人生を愛ある人生に

傷だらけの人生を愛ある人生に

【性愛統合】本来の魅力を引き出す「在り方」と、自分らしい「生き方×愛し方」で深くつながるパートナーシップを。
愛着の核×女性性×男性性【心理×身体×無意識】
癒着・共依存/見捨てられ不安/孤独感/家系の再演/セクシャリティ解放→回復/パートナーシップ問題改善

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心理カウンセラー奈美ですサングラス


苦しい思いをしてまで
誰かを見捨てられないと思う時。

相手のどんなところを見て
どんな風に思うからなのか

言語化して並べてみてほしい。


例えば…


寂しそうに見えてほっとけない
1人にさせたくないと思うから
過去に深く傷付いてきた人だから
愛されたいくせに怖がるから
だから私が愛したい、癒したい
見捨てるなんて苦しすぎて無理

みたいなもの。


わかるわかるー!って人もいれば
投影を見抜く人もいると思うけど


一見めちゃくちゃ愛情深くて
優しい人に見えるんだけど

これ、ものすごく「癒着」マインド。

境界線が緩みすぎて混ざってて
相手と自分が切り分けられてない。


それが「愛」になる時もあるけど
「相手を何とかしなきゃ」があると
それは愛と言うより、依存的な
コントロールが混じる関係になる。

「何もしない」ことがまるで
罪なことのように感じる。


だから、相手の人生のプロセスを
背負って面倒してしまいたくなる。

相手も、そんなところに依存すると
共依存がどんどん複雑化する。



大人である場合なら特に
相手が自分で何とかしたいと
思わない限り、本当の意味で
相手は癒されない。


むしろ、相手を背負いすぎることで
無意識に相手の成長の機会を
どんどん奪ってしまうことになって

「あの人は1人じゃ無理な人」
って扱ってしまうことにもなる。



「見捨てない愛」はめちゃくちゃ尊い。


でも、苦しくても離れられないのは

相手のためのように見えて
自分が傷付きたくないから。


「絶対に見捨てたくない」

って感じる理由が、相手以前に
自分側に傷付いた理由があるから。



本当に「寂しそう」なのは、誰?

「愛されたいのに怖い」のは、誰?

「過去に深く傷付いてきた」のは
相手だけの話なんだろうか?



自分の中にあるものしか
相手の中にあるってわからない。


自分がまだ傷付いてる分だけ
相手に強く執着していく。


だからこそ、相手の中の痛みが
嫌ってほどわかってしまうし
相手を見捨てるなんてことしたら

"また"自分が見捨てられる痛みを
相手を通して見ることになるから


何としても、しがみついて離れない。

もう痛い思いしたくないから。
それくらい、痛かったから。


痛いもんな、めちゃくちゃ。


寂しさを抱えて必死に生きるのも
愛が欲しいのに愛を疑って
怖くなるから逃げたくなるのも
見捨てられる痛みもうんざりで


でも、自分のそんなところは
痛すぎてなかったことにしたいから


相手を通して、自分を救いたくなる。


それ自体は何も悪くないんだけど
相手は鏡(投影)だとしたら


鏡に向かって何かするよりも
投影元である自分に意識を向けたら
鏡に映るものはまた変わるよね?



逆に、相手から見捨てられたくない
ってしがみついて離れないのも
"また"あの時のようになりたくないから。

見捨てられたくないから。


どちらも、肝心の自分自身を
自分で見捨てて置き去りにしてる状態。


だからこそ外側には映し出される。

相手もまた、自分を見捨てて
置き去りにしてる人だろうから。




相手を見捨てられないのは
その痛みがわかる共感性の高さは
めちゃくちゃ才能になるけど
ベクトルが外に向きすぎちゃうと

どんどん意識が相手に混ざって
「本来の自分」が遠ざかる。


まず、こっち。自分。


本当に見捨てたくないのは
自分自身のはずなのに
相手という媒体を通さないと

あの頃の自分を直視できない。

だから相手を通して、
あの頃の自分を癒そうとする。


その前に大抵は、相手に重なる
別の人がいたりすんだけど
結局最終的には、相手は自分の鏡。


相手を手放せるほどの愛って
別に相手そのものを手放す
必要がないこともあるけど
(相手が離れたいのは別として)

相手に対する執着を手放すこと。

「私がやらなきゃ」を手放すこと。
「相手がいなきゃ」を手放すこと。


相手に映し出してる自分の影を
自分の内側に回収していくこと。


「見捨てない愛」を自分に向けること。


相手を見て感じていた
「寂しそう」な感じとか
「愛が欲しいのに怖い」とか

それ、あなたのことじゃない?

ってこと。



本当にしたかったことって結局

「自分だけは自分を見捨てない」

っていう安心感の方なんだよね。



自分の内側から愛が湧いてくると

相手を何とかしなきゃとか
私が何とかしなきゃとか

誰かのために自分を後回しにして
「自分を見捨てる」ことは減る。


寂しさの中にある愛とつながれる。


ただ、背負いすぎた相手の人生を
相手の成長のために返すだけ。

自分を消耗してまで与えて枯渇せず
溢れた分の愛を与えるだけに変わる。


自分が傷付いてきた分だけ
相手の痛みがよく見えるものだけど
自分が癒されてないままだと
それもまた、相手に投影されてく。


投影が濃くなればなるほど
相手と適切な距離をとることが

まるで見捨ててしまうかのような
見捨てられてしまうかのような
絶望的な気持ちになって、手放せない。



手放すのは、自分を縛る不自由さ

無価値感や罪悪感を感じないよう
相手の選択肢を狭めるやり方の方。


愛を手放すわけじゃない。

むしろ、
苦しいものを手放せば手放すほど
真実の愛が入るスペースができる。


これまでは、無価値感や罪悪感で

相手を見捨てたら申し訳ないとか
相手を救えない自分に価値はないとか


そのために見捨てられなかったのが
必要な分だけ愛を贈る、に変わる。


手放すと「つながり方」が変わる。


見捨てることになんてならなくて
「何があっても幸せを願い続ける」
っていう、愛し方に変わるだけ。


直接何かすることだけが愛じゃない。

愛ってのは、状態のことだから。


状態が変われば執着にもなるし
無価値感や罪悪感を埋めるための
補償行為や自己犠牲にもなるし

「自分なんかいない方がいい」

って、
壊して離れる形にもなる。


「相手にどうなって欲しいか?」


そのためにどんな状態でいるか?

犠牲的なやり方を手放したら
「何もしなくても見捨ててない愛」
に昇華させていける。


相手を想うだけでもう、
何もしてないことにならんからね。


相手を癒したいならまず自分から。


癒された愛が、本当の意味で
"勝手に自然と"相手を癒す。


癒そうとか助けようとか踏ん張らず
傲慢にならず、そのまんまの愛になる。


別に自分"だけ"が相手のことを
癒せる存在なわけじゃないと思える。

「自分が!自分が!」

っていう自我の強さでの証明は


とことん自分の愛を信頼すると
手放せるようになってくるし


ただ相手の幸せを願うだけで
幸せな気分にもなれる。


愛は、自分自身の在り方によって
癒しにもなるし、毒にもなるもの。


執着が強まるとコントロールになり
無価値感が混ざれば補償行為になる。


執着や無価値感を手放すと
自分自身を信頼できるから
それが相手に投影されてく。


自己信頼=他者信頼

自己愛=他者愛

自己肯定=他者肯定


自分に対する前提を
そのまま相手に投影するもの。


自分は今のままでもじゅうぶん
愛を与えてるって、

自分の愛を信じてあげよ。


「私がいてもいなくてもあの人が
 幸せになる力はちゃんと持ってる」


って、相手を信頼できるかどうか?

=自分の愛を自分で疑わない
自分で自分をことを見捨てない。


自分で自分を幸せにできるから
誰かとの幸せがより深みを増す。

ってことやで。


で、「見捨てない愛」が成熟すると
執着して手放せないところから

「手放したままつながる愛」になる。


「自分だけは絶対に見捨てない愛」
が育っていくことはもちろん

「相手の中にある愛を見る目」
も育っていくから

つらかった過去の出来事でも

「そこにちゃんと愛があった」

って、自分の中での過去が書き換わる。


という話はまた。


心理カウンセラー奈美