「生まれた時の僕達ときたら

 

なにかを求めて走り

 

転げて泣いて、また走って転んでを繰り返し成長してきた


大人になった僕達は

 

転がるのが嫌だから

 

走るのをやめ

 

求める事をやめ

 

好奇心を捨てる

 

いったいなぜ、そうなってしまうんだろう

 

豊かさとは

 

幸せとは

 

価値観とはいったいなんなのでしょう」

 

 

 

 

ジャパリネット解散して8年

 

 

 

解散期間中「ジャパハリネットの再結成を待っている」との声をちらほら聞くことがあり、なによりも嬉しく励みになりました。

 

しかし、本格的に再結成される事は恐らくないし、

また再び音を出すのは、僕達が50歳すぎたくらいにだと思ってました。

 

 

 

解散後のメンバーは

 

 

けんじろ(O型)→東京にてソロ活動→フジヤマルーキー→松山

 

中田くん(A型)→専門学校→理学療法士

 

鹿島→(AB型)松山→ニッポリヒト→ 東京→ufo table(アニメ制作会社)→松山

 

良一(B型)→FM愛媛パーソナリティ

 

 

ジャパハリネットのメンバーは基本でいたって普通なのですが、

全員「天然」で「めんどくさい」の部門が少しずつ違います。

 

「天然」と「めんどくさい」は裏を返せば素晴らしき才能。

 

当然、「得意」「不得意」も少しずつ部門が違います。

 

調子が悪い時も良い時も順繰り回りますので、

 

メンバー同士が一度に被る事はまずありません。

 

もちろん意見が別れる事はデフォなのですが、なぜだか解決します。

 

どおりで不思議とうまくいくんですね。

 

運がよかったとか、巡り合わせと言えばそれまでですが

 

「思いやり」と「尊重」は不可欠です。

 

 

 

 

鹿島は、解散後もメンバーとちょくちょく会ってましたが

ジャパハリネットの話題が出る事はあまりありませんでしたし

 

バンド以外に仕事、生活、家族があるので、「今」ではないと誰もが考えてました。

 

 

 

そんな中で個人的に転機となったのは

 

愛媛県松山市にWstudioREDができた事です。

 

四国最大キャパのライブハウス

最新設備の機材

 

過去、共ににライブを戦ったPAさんがつくったという事で、

やらない理由がなかったんですね。

 

このライブハウスでお客さんいっぱいにしてライブをすれば

 

どんなに楽しい事やら。

 

と感じずにはいられませんでした。

 

 

 

再結成の理由は各々いろいろありますが、

 

WstudioREDに吸い寄せられる様に再び集結しました。

 

単純にみんなやりたかったのでしょう。

 

きっと、他のメンバーにも再結成を望む声は届いていたはずですから。

 

 

 

この先、何十年続けていけるかはわかりませんが、末長く続けていくつもりです。

 

もちろん僕達のがんばりあっての継続だとは思いますが、

 

ライブに来てくれて応援してくれるみなさんが必要です。

 

僕達ができる事は、

 

年老いたとしても、バカすぎる元気を放ち続けます。

 

 

ジャパハリネットをこれからも、末長くよろしくお願い致します。

 

 

 

 

 

 

 

 

「僕達は歩いていく

 

 

無限に広がる価値観の彼方を

 

 

自分の「居場所」を創り楽しみ

 

 

その先で誰かの何かになる為に

 

 

 

 

世間から

 


はみ出すのも、はみ出さないのも自由

 

 

無理になにかに倣う必要もなければ

 

 

色んな方向へ進んでみて

 

 

違うと想えば引き返せばいい

 

 

無理だと思えば少し休めばいい

 

 

焦る必要など本当はどこにもない

 

 

 

 

 

 

諦めなければ、いつかはたどり着く

 

 

自分の「居場所」

 

 

 

 


多種多様な選択肢を容認できない社会ならば

 

 

社会のルールの範囲で、付き合う必要はない

 

 

なければ創ればいい

 

 

価値観とは、誰かに決められる事ではないのだから

 

 

 

 

 

自分という価値観を明確にしていく事で

 

 

自分の可能性にも気づき

 

 

他人の価値観も可能性も理解し始める

 

 

 


基準は常に自分の中にあっていい

 

 

楽しむ事

 

 

学ぶ事

 

 

遊ぶ事

 

 

がんばりたい事

 

 

それらは、人への繋がりに変わる。

 

 

受け入れる事

 

 

想いやる事

 

 

尊重する事

 

 

敬う事

 

 

感謝する事

 

 

やがて、それは心の「居場所」となる

 

 


これからの時代

 

 

世間の「ものさし」は、とりあえず置いて

 

 

自分が自分らしく生きたくなるように生きていけばいい

 

 

自分の豊かさ幸福について

 

 

自由に考えて他者と共存すればいい

 

 

食い違う事があっても、誤解などはすぐに解ける 

 

 

解けなければ放っておけばいい 思ったよりも時間が解決してくれる

 

 

昔と違って情報の流れは速い

 

 

 

 

この先

 

 

厳しい時代は来るけれども

 

 

それをカバーできるのは、

 

 

いつの時代も「心の豊かさ」のみである

 

 

 

 

自分が変わろうとすれば、面白いくらいに人生は変わっていく

 

 

重要な事は

 

 

「変わってもいい」という事

 

 

この変わるという事が

 

 

膨大な時間が織りなす人生の中で

 

 

人間が考えうる最大の遊び

 

 

 

 

いざ!

 

 

素晴らしき世界の中心へ!

 

 

自分らしく生きていこう」


 

 

 

2019年7月17日 鹿島公行

 

「誰かがいいました

 

王様は裸じゃないか!

 

誰しも陥る可能性のある裸の王様状態

 

 

利害関係の塊で成り立つ社会

 

地位、権力、お金に絡み巻かれ

 

それを、見て見ぬ振りをする事なかれ主義

 

現状を冷静に見つめ直す事ができなくなっている状況

 

 

 

バンドの根本に上のような利害関係はありません。

 

誰かとつながって

 

誰かに喜んでもらい

 

必要としてもらう

 


見栄を張り

 

調子に乗り

 

間違った事もすれば、失敗もたくさんある


それでも人とつながりたいし

 

それが喜びであり

 

それが、生きる糧になる。

バンドにとっての利害関係とは

 

自分達の創った音楽に対して、

 

受け入れてもらい、楽しんでもらう

 

お互いが気持ちよく喜び合う

 

清々しい利害関係」

 

 

 

 

 

バンドをする人は様々な理由がありますが、まぁ普通ではないです。

 

社会に対してうまく適応できなかったor適応をやめた人がほとんどです。

だからこそ社会に対して説得力がある場合が多いのです。

そんな社会の外からなにかを生み出し、認めてもらう事が仕事なわけですから、

 

よほどのバランス感覚を持っているバンドor環境がなければ持続は困難なわけです。




メジャーファーストアルバム「現実逃走記」で

 

日本ゴールドディスク大賞ニューアーティストオブ・ザ・イヤー
を受賞しました。

 

プロ野球の世界では新人賞のようなものでしょうか。

 

3軍くらいの環境しかないのに、受賞するのは、奇跡的な事です。

 

そして、その3軍の環境で1軍の試合に出続けていたので、当然ガタがくるんです。

 

 

 

 

その後の「東京ウォール」では、鹿島勝手に危機感の塊でした。


なんとかしないといけない。

なんとかできるんじゃないか?

という鹿島の傲慢と

 

その時の環境が創り出したアルバムになりました。

 

楽曲や演奏は、

次のステージへいこうともがいてはいましたが、

それほど問題があったわけではなく、

それ以外で今まで通りではない部分が多かったわけです。


状況を冷静に判断できる大人がいなかったんですね。

なにも知らない若者といえども、

自分達で戦って環境は創らなければならなかったんだと思えました。

東京ウォールで勉強した事は、

バンドはつくづく、団体競技だという事。

 

バンドだけではなく、共同で作業するという事は全てそうですね。

 

 

 


その後の「回帰線」

 

鹿島自身が原点に戻り

 

みんなとバンドを楽しむ事を重きに置きメンバーに歩み寄った作品

 

こんな簡単な事にも気づかなかったんだと恥ずかしくなる鹿島と楽しそうなメンバー。

 

これで良かったのですが、


この環境、時すでに遅し。

一度回り始めた負の歯車は、僕達ではどうにも改善されませんでした。

 

 




そして、解散を見据えた「夢色ロジック」

アルバムは、一年前から構築しはじめ、

テーマがあって、メンバーにそれをいかに言わずして、

理解されるかが鹿島的に大事な事ですが、

解散を見据えて創るアルバムは骨の折れる作業でした。


 

そして、終わりに向かって変にこじらせず、バンドを楽しく終わらせるかが難題でありました。

8年という活動期間で終止符を打ち、

解散理由は一言で表せませんが、

結局、メンバー間は今もわかるように仲良しこよしなわけです。

 

 

 

 


よく聞く話ですが、バンドの解散の理由で多いのは

 

だいたい、どこかに対しての「お金」の問題です。



ジャパハリネットは売り上げなど落ちてはきましたが、

鹿島自身は、この環境でのここまでの結果は付加価値な部分が多いと思ってました。

 

過去のブログで説明した以上の結果は全て、

 

ありがたき付加価値。

 

 


音楽というのは難しい仕組みがありまして、

各地の有名所のフェス、 TVの出演、TVのタイアップなど

 

いわゆる露出しているように見えるのは、
(超絶有名でない場合以外は)

 

出版権or利権を分配しておけば大きな枠組みのものに露出させてもらえる可能性が高くなる仕組みとなってます(もちろんそうでないものもあります)

 

 

これはどこの世界でも同じだし、当たり前の事です。

露出がない=売れてないと捉えられますが、
そうではなく、利権がどういう形であるかという部分が大きいです。

もちろん、そうなるまでの実力と運も伴いますし、

その後、存続できるかどうかは、バンド次第。

 

 

事実、僕達は露出しなくなっても暮らしてはいけるはずだったんです。

僕達の明確なタイアップは、インディーズ時代の「烈の瞬」。 

 

出版元は日本テレビ。

 

そういうことなのです。

 


社会に出た事もない若者がそんな事を理解し活動してきたわけもなく、

何十年先も「メンバー全員」が音楽で暮らしていくという目標は

 

何度も何度も思考を重ねた結果、

 

ここで虚しく潰えたのです。

 

 

 

 

 

 

「誰かがいいました

 

王様は裸じゃないか!

 


見えるはずない裸の王様に

 

自分達だけにみえていた服を着せる事が

 

まさにバンドではないかと思ってます。

 

 

直接的には、生きる上で必要のない

 

形にはできない音楽での喜びを

 

有ると信じて叫び続けるのだから」

 

 

 

「人は人に知られる為に生きる

 

その為に

 

名前をつけ、カテゴライズもする

 

たくさんの人に知られる事は、喜びがある反面さまざまな弊害が生まれる

 

そこに紐づくのはいつの時代も

 

 

お金であります」




 

 

 


青春+パンク=青春パンク

パワー&ホットワードが合わさったわけですから、当然若者の間では流行

その真っ只中に運良くいた僕達は

カテゴライズされる事が、認知の第一歩だと考えており、

ラッキーだと感じてました。

要はその後どうするかなので。

 

鹿島はJ-POPの延長だと思って今でもやってます。


ジャンルというのが、長期的に流行るのは、情報の桁と速度が違う今では有り得ないですが、
その青春パンクという「ジャンルが流行った」バンドブームバブルの中、

ジャパハリネットは最後の世代としてデビューするのでした。


CDが売れる時代のメジャーなレコード会社からのデビューは今と違う意味合いがありました。
契約金や年俸は甲子園で優勝し、ドラフト1位で入団したものと同等でした(メンバーには入らず)

青春パンクブームという事もあり10社以上からのオファーがありました。

広告らしい広告を打たず、

1枚目のアルバムだけで10万枚以上=3億という売り上げがあったのですから当然なのかもしれません。






状況は一変しました。

大きく変わったのは、動くお金の額と、人に知られる範囲です。

周りの反応や、中の人も含めて浮き足立ってくるのが、よくわかりました。



関わる人の数も変わりました。

PV撮影、レコード会社、レコーディング・・・だけか・・・・・・・笑

でも、僕達の基本環境は変わらず・・・・・・・。

恐らく、事務所にとっては、
日本一コストのかからないメジャーバンドだったと思います。
レコーディングなんて、だいたい2週間でとってましたので・・・・。

東京単発日帰り、運転&機材物販運搬
1500人のワンマンをやろうが変わりません。

もちろん給料もさほど変わりません。
ただ、印税はぐんっと増えました。

今となってはありがたい事ですが、

 

ジャパハリネットの小規模活動ができるのは、この頃の過酷な活動状況あっての事だと思います。




個人的には、メジャーに上がるに時期尚早だと感じてました
バンドの体力というか器がまだ備わってないと思えたからです。

ただ、鹿島だけが決める事ではないので、流れには逆らわずという感じでしたが、



これらの状況を見て鹿島はどんどん不安になってきました。

 

メジャーデビューはあくまでも通過点で、何十年先も音楽で生活するのが目的だったからです。



あの頃は不安をかき消すように曲作りに没頭しました。

 

鹿島ができる事もそれくらいしかなかったですから。

同じようにプレッシャーが多くかかったのは、けんじろではなかったでしょうか。



彼は僕とはまったく違ったタイプですが、

見た目と違って、

自分に対して細かい事を気にするタイプの割には人に対して大らか。

人との観点がずれているが、社会の調和を重んじる。

優柔不断すぎるが、局所的すぎるこだわりを持ち

自立心がないからこその寛容

小学生のままで育った大人

悪いように聞こえると思いますが、これらの条件はボーカリストとしては、非常に才能に優れています。

 

今では爆笑のネタでしかないものがほとんどですが、

 

言える事も言えない事もエピソードの数では群を抜いて一番です。

 

それだけ、色々な事を起こせる可能性をもっているんです。

 

それから、

 

鹿島と質は違いますが、自分というものがあまりないというか、確立されてなかったので、表現したい事があるという事。



さらに、素晴らしい事は「調子に乗ってくれた」という言い方が正しい。

 

バンドなど人前に立つには、

 

多くの場合、まずは調子に乗らないと、はじまらないからです。

 

調子に乗る事はひとまず、楽しく正しい事なんです。

 

 Mステにでた時のタモリさんとの会話なんて、真似できない芸当でした。

 


 



順風満帆に見えたジャパハリネットですが、

 

 

思い返せば、この頃からすでに歪みの種は蒔かれ

 

警笛の金は小さな音で鳴り響いていたのでありました。

 

 

 


「お金というのは、誰かが作り出している無限の紙切れ

そのお金があらゆる対価として機能し、有限を支配する社会

お金とは対極に位置するバンド活動

僕達はたくさんの人に知ってもらい

 

認めてもらいたかった我儘な生き物にすぎなかった
 

知られて 認められた今は

 

感謝と慈悲に変化する

 

調子に乗ったままでは終われない」


「なにかをはじめる時

 

世間様の価値観など捨て置き

 

笑われるくらいでちょうどいい」

 

 

 

 

 

 

当時、鹿島は考えていました、一度のライブで一人でもいいから認めてもらえる事を繰り返すと、案外簡単にいけるんのではないだろうか?

 

日本における

「CDを買う」「ライブに行く」

人口が全国の中で、全体の10分の1としましょう。

その中の100人に1人認めてもらい、

全国をまわりきったならば12万という数字なります。

120,000,000➗10➗100=12万

 

ちょっとわかりづらいですが、学校で例えてみてください。

クラスで1人・・・・いや学年で2、3人・・・・・・。

それならいけるかも・・・・・・・。

 

とはいえ、今は時代が違います.

でも、根本的にはいっしょです。

何事も一生懸命であれば、誰かはみてくれているもんです。

 

 

 

そのような、田舎の泥臭い感情をもったバンドは、全国をまわる事になりました。

 

期間にしたら、だいたい2ヶ月

本数にしたら1ツアー50本前後・・・・・。

 

決まったと知らされた時は先の事を色々と考えるのをやめました・・・・。

 

メンバーにとっては初の長期車生活&極貧

 

 

メンバーそれぞれカルチャーショックな事は多かった事でしょう。

 

事件らしい事件はなく、あるのは軽い小競り合いくらいです。

 

ある日の車中泊、就寝時に後部座席で寝ている時の事

 

中田くんの怒りの声が

「どらぁ!こらぁ〜いいかげんにせい!」

何事かと思って起き上がると

後部座席で寝ていたけんじろが

運転席でリクライニングして就寝中だった中田くんの顔面に足の裏をペタペタと貼り付けていたではあ〜りませんか。

 

狭い車中泊の中、足の置き場には困るものです。

しかし、その後けんじろうは、狸寝入りを決め込み、

中田くんも疲れているので、もぅええわとばかりふて寝。

 

不穏な空気が漂う車内、笑いを堪えるのが必死でしたというジャパハリよくあるパターン。

 

 

ツアーの方は来る日も来る日も戦うというよりは

挑戦した日々だったと思います。

 

ジャパハリネットのお客さんは0人に近い日がほとんどでした。

それでも、CDが数10枚売れていきバンドの自信になっていきました。

 

もちろん、本当にお客さんが2人だけの日なんてのもザラでした。

今ではそれが、僕達の財産になってます。





 

この頃のバンドスタイルが、今も色濃く引き継がれている部分が多いです。

不器用で、変われなかったと言えばそれまでですが、

変わらなかった事に対する、良い部分も今は実感できます。

 

 

 

 

その後も、

 

レコーディング→ツアー→ツアー→レコーディング→ツアー→ツアー

 

地元に帰ると媒体取材&出演、練習、曲作り、雑用

 

インディーズ時代は

年間100本以上のライブにレコーディング

もちろん、運転、運搬は基本メンバー(僕は免許なかったんで、ひたすら車中で曲作り)

 

凄まじい時の流れの中、

残念な事に僕達は当時の記憶がほとんどありません。

その当時の顔はみんな死んでました。

ただ、ライブだけは手を抜く事なく行えた事が、よかった事ではないでしょうか。

 

 

 

このむちゃくちゃすぎる忙しさの疲労とストレスはメンバー色んな形で現れました。

 

けんじろう→酒乱

 

中田くん→太り始める

 

鹿島→沖縄で泡盛飲んで意味不明の大号泣(後にも先にもこんなんないです)

 

そして、事件らしい事件といえば

 

 

良一がメンバーに脱退を申し入れてきました。

 

まぁ無理もない事なんです。

 

 

中学生からジャパハリネットをはじめて、

世間を見渡す暇もなく、

自分の成長に対して

ジャパハリネットが売れて行くことに追いつけなくなっていたんですね。

 

あの時は、メンバー皆で必死に説得しました。

「なんとかがんばっていこう!」っと。

もちろん、その後の良一はがんばってくれたのですが、この選択は今の状況に対する警告なんだなっと受け取っておりました。

 

良一は、今でこそラジオDJとして、司会として、誰よりも話しますが、

昔はインタビューで一言もしゃべってないって事はよくありました。

 

繊細なところがあり、

ネガティブでニヒルで少し変わっていて、

そのわりに機転の切り返しができる所などが彼の良いところです。

 

サウンド面などを良一に相談する事も多いですし、

今では、鹿島といっしょにバンドで女子的な役割を果たしているはず。

 

 

飛ぶ鳥を落とす勢いの如く、

インディーズ業界を駆け上がっていきました。

 

高校野球で例えると、

今まで甲子園経験のない弱小高校が初出場で初優勝した感じだと思います。

 

それぐらい地元に環境もなければ、ライブ前後の環境も劣悪でした。

広告を打つ余裕などなかったはずですから、

口コミ=ライブで売れていった部分が多いと思いますが、一つ。

 

先人というか、道を作ってくれていた「ガンジンルー」という先輩のバンドが地元にいました(今もいます)

ドがつくインディーズの時、デモテープを置かせてくれるよう頼んでもらい、

県外ライブに誘ってもらい、他のバンドに紹介してくれました。

全国ツアーの道筋も知り合いも、僕達はその後をなぞっていくだけだったので、感謝でしかないです。

 

あの時の勢いは、体と心の充実、まだなにも知らない若者だったので、

二度とでない勢いがでて、良くも悪くも調子にも乗れました。

ただ、あの勢いは見失うものが多いので、もぅださなくていいとも思ってます。

 

その後、愛媛という田舎から全国へと駆け上がった若者はなにも知らずに、

メジャーの舞台へと進むのであります。

 

 

「挑戦と好奇心が溢れたその道の過程には失敗があり

 

笑われる事もあるだろう

 

しかしその失敗こそが糧となる

 

失敗を学ぶ事が、後に大きな豊かさとなる」

 

 

 

「この世の全ては「運」という得体の知れない根も葉もないもので構成されている

但し、それを求めぬ者、準備ができていない者は、その幸運に気づけない」

 

 

 

小さな歯車が出来上がった僕達

さらに大きく速く回り始めたのは

ギターの中田くんが加入してからでした。

 

彼の音楽以外での目に見えない重要な役割があったからこそ、躍進していきました。

 

愛車のドラッグスターを売って、機材車を購入してくれた事

(機材車ぼったくられてたけど・・・・)

 

自ら外交役となって色んな人達と交遊してくれた事

(ほとんど先輩だったのでいじられてましたが・・・)

 

バンドの風紀を正す役目を担ってくれた事

(ライブ後は誰よりも臭う彼ではあります・・・・・・)

 

行動という事への着火剤、カンフル剤となってくれた事

(今ではまったく考えられませんが、中田くんは当時の彼女と別れて酒に酔い、機材車運転→1升瓶片手に検問にひっかかるというウルトラC)

 

昔気質の、お父さん体質ですね。

 

彼が好かれる理由はこういう所にあるんですね。

 

 

そして、僕達は着実に積み重ねました。

青春パンクブームという追い風もあり

する事なす事全てがうまくいったように感じました。

鹿島はこの頃、希望が確信に変わったと古き日記に記してありました。

 

地元TVの出演→優勝

デモテープ500まぁまぁ即完

県外ライブ大盛況

 

しかし、バンドとしては、ただの通過点に過ぎず、

メンバー1人1人が生活できるだけのお金を捻出するのがとりあえずの目標でした。

 

 

昔のアマチュアバンドマンは過酷です。

 

月4本ほどのライブ→ノルマ一人10000円くらい→友達なんていない。

あっ打ち上げ代3000円!いっきいっき!

13000円×4=52000円/月

 

スタジオ代→週2.3は練習しないと→プラクティス!プラクティス!

2000円×10=20000円/月

 

楽器や、エフェクター、弦、機材、買わないと!よし!

魔法のカード発動!ローン祭りだ!わっしょい!

なんなら、楽器のローンは重複しちゃうぞ!

25000円/月

 

衣装とか・・・・・・いるな!

よし!ローンローンヘルだ!

 

10000円/月

 

バンド経費 107000円/月

 

フリーター1人暮らしの鹿島はバンド活動の経費がかさみ消費者金融への借り入れが100万を超えようとしていました。

 

あれ?いつ個人練習したり曲作るの・・・・・・?

 

バイトでしょ!!!!!!

 

コンビニでのバイトをしてまして、

店長さんには容認してもらい、休憩中はベースと曲を・・・・(レジ打ちの場所では歌詞を・・すいません)大変ありがたかったです。

 

当時、飲みに行くとか、友達と遊ぶとか、そんな記憶はございません。

いえ、その前にお金がございません。

 

鹿島の借金の雲行きが怪しくなった頃合い

めでたくインディーズデビューするのでした。

 

 

「個人ではなく、4人でなにかをする事によって、

 

確実に運気が上がるジャパハリネット

 

幸運があっての事ではあるが

 

そこには、彼等の直向きな想いと地道な努力があったことは間違いない」