芸術は爆発だ! 「太陽の塔」と「挑む」

岡本太郎(1911~1996年)が亡くなって、かなり久しいが、彼を偉大な芸術家として認識する人は多い。  新天町商店街の話しは、かなり後になります。

岡本太郎 (写真:岡本太郎記念館)

一般的に、彼の名を良く知る年代は、日本が高度経済成長期に向かう時代を過ごした我々団塊世代ではないだろうか。 僕が岡本太郎の名前を知ったのは、昭和45年(1970年)の大阪万国博覧会開催の時からだった。 先進国として日本が世界に羽ばたく為の、一世一代の国家プロジェクトだった。 期間中6400万人の入場者数は、2010年の上海万博7100万人(中国政府の発表数は本当かな??)に次ぐ記録だ。 僕も6400万人の中の一人で、アポロが持ち帰った「月の石」を見るため、3時間並んだことを覚えている。

 

この時、岡本太郎は会場中央に高さ70メートルの巨大なモニュメントを突き建てた。それが大阪万博のシンボル「太陽の塔」だった。

大阪万博会場にそびえ立つ「太陽の塔」 (写真:共同通信社)

 

 「太陽の塔」は、そのまま万博記念公園の中に保存されている。 (2015年撮影)

 

僕と同世代の皆さん、皆さんは大阪万博のシンボル「太陽の塔」を初めて見た時、どのように感じられましたか? 僕は率直に「エッ これ何?」って思いましたね。 勿論、社会人になったばかりの未熟者で、岡本太郎の事についても全く知らないし、芸術に無知だった僕だったので、その異様さに単純に驚いたのでした。 いま思うに、僕のような凡人がモニュメント制作を依頼されたとしたならば、日本建築を世界に紹介したいが為に、単純に「七重の塔」などを考えたんだろうなって・・・。

 

新天町商店街の話しは、まだまだ・・・。 僕は岡本太郎と言う人間を知りたくなった。

 

岡本太郎は太平洋戦争が始まる前の10年間はパリで絵の勉強をしていた。 彼は「パリでピカソの作品に強烈な衝撃を受け、抽象絵画に自分の道を求めた」と、後の著書で述べている。 確かに、「太陽の塔」の「太陽の顔」を見ると、ピカソから受けた衝撃が伝わる。

太陽の顔

 

万博とは「技術と産業の進歩・調和によって、近未来の幸せを体現する」が基本的なメッセージとしてあるが・・・岡本太郎は言った・・・「その体現方法について、現在(当時)の日本人の価値基準は欧米的主義純日本伝統主義の二つしかない」と。 僕が単純に「七重の塔」をイメージした純日本伝統主義のことを言っている。 彼は日本人の二つの価値基準をぶっ壊すような神像を考えた。 そう・・・あの「太陽の塔」は近未来を見つめる神像なんです。

 

岡本太郎は「芸術の美」を追求している時に「縄文人の精神」について探く学んだ。 弥生人よりも前の縄文人は「何千年もの間、毎日を暮らし続けていくことを自然の価値観としていた。 暮らし続けて行くことが、未来への進歩と考えていた。 それが日本文化の始まりで、未来を見つめようとする縄文人の精神(想いの原点)を具現化したのが縄文土偶なのではないか」と、彼は考えた。 未来を見つめようとした時に小さな「」が生まれるのだろう。

縄文土偶の文様 (長野県曽利遺跡)

縄文人物土偶

 

日本人が未来を見つめる原点は? 岡本太郎は、それを「縄文人の精神」とした。 太陽の塔の頂部に輝く「黄金の顔」は、縄文人物土偶の顔であり、未来を象徴しているのだろう。

黄金の顔

 

岡本太郎の想いが、うっすらと解りかけた時・・・「太陽の塔」には彼の真のメッセージが秘められていて、怖いと思えるぐらいの気迫を感じたのです。  

 

「芸術は爆発だ」と発した岡本太郎は「変なおじさん」か?

芸術は爆発だ」は昭和61年(1986年)の流行語大賞を受賞した。 「太陽の塔」の作者として世間の認知度が高くなっていた岡本太郎は、昭和55年頃からテレビや週刊誌などのマスメディアに登場することが多くなった。 教養番組とは言い難いTVトークショーやバラエティ番組に出演し、「芸術は爆発だ」とか「ガラスの底に顔があってもいいじゃないか」などと、大きな身振りとともに意味不明な言葉が発せられた。 ある意味では人気があったと言えるが、世間には「芸術家=変なおじさん」のイメージも広がった。

 

僕の中では、それは悪いイメージではなく、「芸術家=変なおじさん=特別な感性を持った人」と捉えていたような気がする。 凡人とは違う発想が出来る人が、芸術家・音楽家なのではないでしょうか。 岡本太郎はそれを特に極めた人です。

 

彼の幾つかの著書の中にこんな言葉があった。

 芸術は、常に新しく創造されねばならない。 けっして模倣であってはならない。

 人生は積み重ねだと誰でも思っているようだ。 僕は逆に、積み減らすべきだと思う。

 財産も知識も、蓄えれば蓄えるほど、かえって人間は自在さを失ってしまう。

 過去の蓄積にこだわると、いつの間にか堆積物に埋もれて身動きが出来なくなる。

 人生に挑み、本当に生きるには、瞬間瞬間に新しく生まれかわって運命を開くのだ。

 

岡本太郎は、変なおじさん=真の芸術家=人生の道標です。

 

新天町商店街の中に、岡本太郎の作品がある

終戦から僅か1年後に開業した新天町商店街は福岡市復興のシンボルです。西日本初のアーケード型商店街は現在でも大賑わいを見せ、ショッピングをしなくても我々市民が一番心が落ち着く町でもあります。 その商店街南通りの一番西端の3階に「新天町倶楽部」があります。

新天町倶楽部」は、元々は商店街で働く方のための社員食堂だったのですが、一般の買い物客も利用出来ます。 僕も、旧福岡ビル4階にあったオフィスに勤めていた頃から、現在でも良く利用しています。 

 うっちゃんのブログ 新天町倶楽部(ビーフシチュー)

 

 僕のお薦めは、「オムライス」と冬季であれば「ビーフシチュー」です。 安くて美味しいです。

「新天町倶楽部」のビーフシチュー

 

ビーフシチュー」で話が逸れました。 岡本太郎に戻ります。

 

43年前の昭和56年(1981年)10月、新天町商店街は創業35周年を記念して「新天まつり」を催しました。 メルヘン広場(時計塔下)の特設ステージに岡本太郎をお招きし、トークショーで盛り上がったそうです。 

 

その時、岡本太郎の作品「挑む」が展示されたのですが、サイズが小さかったので、後日、彼から改めて大きな作品(1.9m × 3.8m)が寄贈されました。

 その作品が原寸のまま「新天町倶楽部」の壁に掛けられている。

 

黒色で描かれた「挑む」の文字が爆発してますね。 元気が出ます。 当時の新天町ひいては福岡市が未来に挑むイメージが描かれ・・・その通りの国際都市になりました。

 

元気をチャージするために、一度「新天町倶楽部」を訪れて「挑む」を鑑賞して下さい。

 

 作品は新天町倶楽部テーブル席の青↓矢印の場所に掛かっています。

 

 

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