営業終了する大洋映劇で「めんたいぴりり」を見て来た
■ 大洋映画劇場
終戦の翌年の昭和21年(1946年)4月、中洲で「大洋映画劇場」が開館した。 創業者の岡部重蔵 氏が、空襲で焼け野原になった福岡の市民を元気付けようと建てた木造の映画館だった。 昭和27年(1952年)に地上4階建ての鉄筋ビルに改築され、以後、娯楽が少なかった僕らの青春時代にとって、映画は最大の楽しみとなった。 しかし、時代が変わり、中洲に十数軒あった映画館も今では「大洋映画劇場」のみとなっていた。
中洲の大洋映画劇場
博多っ子純情(長谷川法世:作)に描かれている昭和50年代前半の大洋映劇
↑ この頃、隣にチロリアンや吉田宝飾店が並んでいたな~。 小学生の時に、親父に連れられてジョン・ウェインの西部劇を見に来たことを記憶している。 それが最初だろう。 中学生の時には友達数人と、同じくジョン・ウェインの「史上最大の作戦(ノルマンディ上陸の映画)」を見たことも覚えている。 息子が小学生の時に「ゴジラ(ビオランテ)」を見に連れて来た。 沢山の映画をこの大洋映劇で見て来ていて、思い出が詰まった映画館だ。
しかし、建物の老朽化に伴い本年(2024年)3月末で営業を終了し、建物は取り壊しの予定とのこと。 よくよく考えると、この二十年ほど大洋映劇には足を運んでいない。 最後だからと思い立ち、奥さんを誘って「さよなら興行」を見に行って来た。
大洋映画劇場 大洋1入り口
現在、大洋映劇は「大洋1から大洋4」まで四つの劇場を持っている。 大洋1が一番古くて300席と大きい。 入口のデザインから昭和の趣で、何とも言えない感じ。
↓ チケット売り場から左側に「キネマカフェ」がある。
キネマカフェ
↑ そこには昭和のノスタルジーを感じる懐かしい癒しの空間があった。 あ~、このカフェも無くなってしまうのか・・・。
↓ 大洋2・3・4は別の入り口からエレベーターで4階に上がる。
↓ 昭和21年(1946年)4月に一番最初に上映されたのが、チャップリンの「黄金狂時代」だったので、「さよなら興行」の最後の3月31日(日)も「黄金狂時代」で締めくくるらしい。 大勢の映画ファンで混むでしょうネ。
↓ エレベーター前で、大洋映劇との最後の記念写真を一枚。
↓ 4階でエレベーターを降りると「めんたいぴりり」のパネルが目に入った。
そうなんです、今日は大洋3で上映されている江口カン監督「めんたいぴりり パンジーの花」を見に来ました。 「めんたいぴりり」とは、福岡の「からし明太子」を全国に広めた「ふくや」の創業者・川原俊夫 氏をモデルに描かれた映画で、主人公を演じるのは博多華丸さん。 僕は川原俊夫氏のお店に行ってお会いしたこともあるので、当時のお店の様子を懐かしく思いながら映画を見てました。
「ふくや」と 映画「めんたいぴりり」のことに関しては、これから・・・。
■ 「めんたいぴりり」 と「ふくや」
↓ 大洋映劇前の明治通りの北東側・・・「玉屋デパート」跡の「gate's(ゲイツ)、「カレーの湖月」跡の「庄や」の手前から南の国体道路に向かって中州中央通りが続く。
↓ その中央通りの数百m左側に「中州市場」がある。 昔は木造だった。
↓ 映画に登場するお店(ふくのや=ふくや)は、この市場の中にあった。 現在でも業務用の事務所(店)が残っている。
↓ その数軒先に現在の本社(本店)が店を構えている。
ふくや本店内
↓ 東区箱崎の近くに、「ふくや」が運営する「ハクハク」がある。 博多の食と文化を楽しめる博物館で、めんたい工場の見学もできる。
ハクハク (2017年 撮影)
また、川原俊夫氏が「からし明太子」を完成させるまでの経緯などが学べる展示コーナーがあります。
* 上の2枚の写真は、2017年度JR九州ウォーキングに参加して「ハクハク」を訪れた時に撮ったもの。 宜しければブログ覗いて下さい。 → 「放生会とハクハクを訪ねて」
↓ この時、「ハクハク」の展示場で懐かしい写真を発見しました。 それは、僕が高校生の時に訪れた「ふくや」を思い出させる中州市場の風景でした。
映画「めんたいぴりり パンジーの花」のロケは、県内の各所で行われたが、「トリアス久山」の中には中州市場を再現した特設セットが組まれた。 撮影終了後の昨年(2023年)の6月上旬、その特設セットがそのまま一般公開されていたので行って来た。
* その時のうっちゃんのブログ →「めんたいぴりり パンジーの花 特設撮影セット」
↓ 場所は「トリアス久山」モールの東側にある建物の一画。
↓ 元はパン工房だった店の周囲は、赤く塗装され、「ふくや」の創設者・川原俊夫氏の名言が幾つも書かれていた。
↓ 特設セットでの写真。 映画「めんたいぴりり」の中では、「ふくや=ふくのや」、「川原俊夫=海野俊之」となっている。
「ふくのや」の特設セット
「ふくのや」店内の特設セット
中洲市場商店街の特設セット
昨年のこの特設セットは、「ハクハク」での展示写真と同じ様に、60年前の高校生時代に訪れた「ふくや」を懐かしく思い出させてくれた。
しかしながら、映画と特設セットの店内は、あまりにも整い過ぎていた。 僕の記憶に残っている中州市場とふくや店内は、もっとごちゃごちゃしていたのである・・・(笑)。
■ 川原正孝 君
大洋映劇に「めんたいぴりり パンジーの花」を見に行こうと思い立たせてくれたのは、一週間前に届いた一枚のハガキだった。
↑ 送り主は、ふくやの会長・川原正孝となっている。 川原俊夫 氏の二男(映画の中では海野 勝・まさるの名)で、三年前に社長を退いたようだ。 このハガキは会社の業務用名簿から送られたのであろうが・・・実は、彼とはお互いに年一回の年賀状だけは交わし合っている。 この十数年、顔を合わせてはいないが、高校1学年で同級生になって以来、この60年間で年賀状は一回も欠かしたことは無い。
一昨年、母が99歳の大往生で旅立った後、実家の整理をしていて、箱の中からとんでもない物が出て来ていた。 僕達が高校1年の昭和41年(1966年)元旦に、川原正孝 君から届いた年賀状だった。 本人の了解は取っていないけど、紹介します。
年賀ハガキが4円とは・・・この頃から、急カーブを描いた日本の高度成長が始まります。
↑ 最後の「来年から最高ではないと言う意味ではないよ」の文章から、彼の優しい人間味が感じられる・・・高校生のその頃は、そうは思わなかったが(笑)。
高校1学年の秋の体育祭のときだった。 彼が昼の弁当の”おかず”にと、皆の分を含めて妙な食べ物(笑・失礼)を持ってきた。 それが僕が見て食べた初めての明太子だった。 川原君のお父さんである川原俊夫 氏が試行錯誤を繰り返し、「からし明太子」を完成させた頃で未だ世の中には広く知られていなかった。 川原君の自宅は、お店と同じ市場の中だったので、何回か遊びに行った時にお父さんに挨拶したのだった。 気さくな人物だったことは、今でも記憶に残っている。 その後の川原俊夫 氏の活躍と「ふくや」の発展は、皆さんがご承知の通りです。
川原正孝君は映画の中(山笠のシーン)で一瞬だけエキストラ出演していたが、映画館内の案内新聞に挨拶が出ていた。
ある日の想い・日記
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