田原家が眼病治療を学んだ高場順世は天草出身?

田原眼科医院 ① 360年の歴史」 の続きです。

 

前回のブログで、香椎田原眼科医院は「家祖の田原貞俊(1671没)が粕屋町内橋で眼病治療を学び、二代目の田原順貞が須恵町上須恵で眼科診療所を開いた」と書きました。

 

田原家が移り住んで来た地が須恵町なので、上須恵で診療所を開いたことは解る。 ただ、家祖の田原貞俊が眼病治療を学んだ地が、何故、粕屋町内橋なのか?

 

 

粕屋町内橋は東区土井駅から約1.5kmの辺りで、青洲会病院が近くにある。 多くの資料・説によると、江戸時代初期、この地に住む眼科医・高場順世なる人物が三人の弟子(田原貞俊中村正宅・●●●●)に眼病治療術を伝えたとされる。

 

田原眼科医院の家祖・田原貞俊上須恵に戻り、二代目の田原順貞が本格的に眼科診療所を開いた。 中村正宅粕屋町内橋の人物とされ、この地で中村眼科診療所を開き、後に黒田福岡藩の藩医に取り立てられている。 三人目の●●●●は出身地が不明だが、眼治療術を伝授された後、高場正節(以後、正節の名が継がれる)を名乗っている。 もしかしたら、高場順世には嫡子が無く、跡継ぎとされた人物かもしれないが・・・何故か、何代目かは分からないが須恵岡家の名取養子となり、名を岡 正節と変え岡 眼科診療所として発展する。 高場順世の墓は須恵の岡家の墓所内にある。 岡 眼科田原眼科とともに黒田福岡藩の藩医となり、江戸時代、須恵村には二つの有名な眼科診療所があった。 

 

さて、福岡(筑前)の眼病治療の祖とされる高場順世は、何処で眼治療術を学んだのか? 何処から粕屋町内橋に移り住んだのか? 幾つかの書物・資料には、高場順世天草出身だと書かれている。 ところが、須恵町教育委員会の山下啓之氏が天草市教育委員会に訊ねたところ、「室町末期~江戸初期の天草では高場姓が確認できない」とのことだったらしい。

 

 

高場順世は天草の地元出身ではなくとも、天草に一時的に滞在・生活していたと考えられる。 西南学院大学大学院の上園慶子氏の報告資料の中で、「高場順世唐津藩寺沢家の家臣だった」との研究報告がある。 であれば、説明と浪漫(仮説)がたてやすい。 関ヶ原の戦いで東軍に就いた唐津の寺沢家は、西軍の小西行長の領地だった天草を飛び地として拝領し、富岡城に城督を置いて統治していた。 ところが、年貢の取り立ての厳しさに一揆が起こり「島原・天草の乱(1637~1638)」につながる。 天草四郎をリーダーとする三万七千の一揆軍は原城址に籠城するが、九州諸藩による討伐軍の攻撃によって全滅する。 寺沢家は一揆勃発の責任から断絶改易となり、天草の領地は没収され幕府の天領となった。 

 

高場順世は家臣としては、唐津城ではなく天草の富岡城に出仕していたのではないか。 寺沢家が断絶したので、天草で浪人の身となる。 だから、地元出身の姓名に高場が無かったのだ。 彼は生活していく為に、天領となった天草で医術の勉強をして、医者として身をたてようと考えた。 天草長崎にも近く、志ある者が医術を学ぶ環境が整っていた。

 

戦国時代期に、宣教師で医師の資格を持ったルイス・アルメイダと言うポルトガル人が日本にやって来た。 彼は布教を続けながら各地を廻ったが、病気で苦しむ人々のために医療を施すことが多くなった。 豊後(大分)の大友宗麟に認められたアルメイダは、外科・内科の診療所を建て、これが日本初の西洋医療病院となった。 現在同じ場所に大分市医師会アルメイダ病院が建っている。 その後、アルメイダは九州各地で医術教室を開設し、日本人医師の養成に尽力した。 アルメイダは天正11年(1583年)、最後の滞在地・天草で生涯を閉じた。 天草にはアルメイダの子弟で、医術を教育する指導者も育っていた。

天草アルメイダ記念碑

 

唐津寺沢家断絶後、家臣の高場順世は浪人の身となり、アルメイダが育てた指導者から医術を学んだ。 日本を訪れた多くの西洋人が、日記の中に「日本人は眼を病んでいる者が多い」と書き残している。 アルメイダも眼治療術については研究を重ねた。 高場順世は医術の中でも特に眼病治療術を集中して学び、個人的には目薬の研究も続けたのではないか。 

 

西洋医術、特に眼病治療を学んだ高場順世は、九州内で診療所を開くことができる藩、出来ればそこで仕官できる道を探っていた。 そして、彼は黒田福岡藩を選んだ。 眼病の勉強をする間に、黒田藩に関する興味ある話を何度も耳にしたからだ・・・。

 

司馬遼太郎の作品の中に「播磨灘物語」がある。 福岡藩初代藩主黒田長政の父・黒田官兵衛孝高の生涯を描いた時代小説だ。 その中で、官兵衛の祖父・黒田重隆(しげたか)が備前福岡から播州姫路に移る頃の話しがあって、それはNHK大河ドラマ「軍師 官兵衛」の脚本の中にもあった。

 

 

近江黒田村から備前福岡に流れていた黒田重隆は、一家を引き連れ姫路の百姓家に身を寄せたが、一家は食べていくことにも困っていた。 重隆は神社の神職からのアドバイスから、あることを思いついた。 備前から播州にかけては鉄の産地であり鍛冶屋が多い。 しかるに、鉄の粉によって眼を患う者も多い。 重隆は黒田家には近江の頃から「目薬」の製法が伝わっていること思い出した。 

 

播磨灘物語」では次のように書かれている。

『山に、葉に毛の生えているカエデ科の木がある。 近江では「目薬の木」というのだが、その樹皮をとってきて砕く。 それを赤い絹の袋につつんで煎じ、その袋ごとを目にあてて煎じ汁を滴らせるのだ』

 

重隆は「目薬」をつくり備前・播州一帯を行商して売り歩いた。 もくろみは大当たりした。 たちまちある程度の財を成し、播州の豪族・小寺家の家臣として迎えられた。 嫡男の職隆(もとたか=官兵衛の父)の代に、小寺家の支城・姫路城の城督を任せられるようになった。 天文15年(1546年)11月29日、姫路城で官兵衛孝高は生まれた。 元服し城督を引き継いだ官兵衛は、中国毛利攻めを進める信長の右腕の家臣・秀吉の進軍を援助したことから認められ、軍師と言われるまでに出世する。 

 

この黒田重隆の話は、天草で勉強中の高場順世の耳にも入っていた。 「目薬」の研究に「目薬の木」を採りに行って色々と試しただろう。 話しは変わるが、秀吉の朝鮮出兵の際、名護屋城普請奉行四人の内の二人は、後に唐津藩藩主となる寺沢広高と福岡藩藩主となる黒田長政だった。 縄張り奉行が黒田官兵衛だったことから、関ケ原の戦い後、移封して来た黒田福岡藩と寺沢唐津藩は隣同士で懇意にしていた。 元唐津藩家臣だった高場順世は、そんなことも考えながら、眼科医として第二の人生のスタートを筑前福岡と定め天草を出発した。

 

確かに高場順世は謎の人物であるが、僕が香椎浪漫的に描けば以上のようになる。

 

田原眼科医院 ③ 須恵町を訪ねる」に続く。

 

 

 ブログ後記 : 黒田家に目薬製法の家伝がなかったら、福岡の黒田五十二万石は存在しなかったのではないだろうか。 

 

 参考文献 : 須恵町歴史民俗資料館解説、西南大学・上園慶子氏 地域史料研究会報告資料

 

 今回からのブログ「田原眼科医院」は「歴史内容」の比率が高いので、ブログ書庫(テーマ)は「香椎あれこれ」から「歴史散歩」に変えて収めます。

 

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