取り壊し中の香椎花園から旧香椎球場が現れた!

 上の写真については、最後に紹介する。

 

香椎に存在した二つの野球場 ①の続きです。

 

香椎には二つの「香椎球場」が存在していたことで、話題がどちらの球場を指しているのか、混乱もある。 ブログ「香椎に存在した二つの野球場 ① 」では、現在の地図上にその場所を記している。 

二つの香椎球場 (ピンク部分)

 

西鉄香椎線の前身である「博多湾鉄道」は、大正13年(1924年)、和白/千鳥橋間に鉄道を敷いた。 「博多湾鉄道」は沿線開発に力を注いだ。 

昭和7年(1932年)、西鉄香椎駅近くの福岡銀行香椎支店辺りがバックネットとなる最初の香椎球場が造られた。

最初の香椎球場 昭和7年(1932年)~昭和13年(1938年)  

画像は「香椎タウンストーリー」提供

 

野球の人気が高まってきた時期であり、大いに利用されたが、あまりにも町なか過ぎた。 香椎駅近辺が賑やかになり、住宅建設が進んだ昭和14年(1939年)、「博多湾鉄道」は現在の「香椎花園前」駅近くに新しく「香椎球場」を建設し、「運動場駅(停車場)=後の香椎花園前駅」を設けた。 同年に、「香椎花園」の前身となる「香椎チューリップ園」も開園している。

 昭和43年頃の香椎花園。 上方に香椎球場がみえる。 (旧香椎花園所蔵)

 

しかし、日中戦争の事態も悪化し、昭和16年(1941年)、日本は真珠湾を攻撃し太平洋戦争に突入した。 翌昭和17年(1942年)の戦時中、「博多湾鉄道」は他の鉄道会社4社と合併し、西日本鉄道となる。 昭和20年(1945年)に終戦を迎えるが、野球場もチューリップ園も戦時中は野菜・イモ畑になっていた。

 

古代より国際都市として歴史の荒波に揉まれ強く育って来た福岡は、戦後の復興も他の都市よりは早かった。 昭和21年(1946年)には、焼け野原から立ち上がった新天町が営業を始めた。  終戦の混乱のなか、福岡県は「第3回国民体育大会」(昭和23年10月末)の福岡開催を決めた。 GHQ(連合軍総司令部)が管理していた福岡城三ノ丸に、国体開催用の陸上競技場と野球場を建設した。 現在の平和台陸上競技場旧平和台球場だ。

 

昭和23年の香椎土地区画割整理事業!

国体開催数ヶ月前に、福岡県は「福岡県都市計画 香椎土地区画割整理事業」の事務所を香椎に置いている、  事務所設置の概説の中に、このように記されている。

 

香椎町は福岡市の北方八粁(キロ)の地に位し、地理的にも経済的にも福岡市の衛星都市としての発展が期待され、必然的に計画にそった市街地建設を進めなければならない。 運動場駅野球場を中心に、チューリップ園を復活させ大規模遊園地を計画する。 また、海浜丘陵地帯を県営賃貸木造住宅の建設地として指定し、理想的な緑園海浜住宅地となす」 

 

戦後の昭和23年に、このような香椎の都市計画が発表されていたとは驚いた。 

当時の福岡県は、先見の目がある(笑)。

 

計画は国体の開催に合わせて進められた。 福岡県香椎事務所は、国体の種目の中で軟式野球とバレーボール競技を香椎に誘致した。 西鉄運動場駅の野球場を軟式野球の球場として、また、近くにバレーボールのコート八面を新設して、選手・関係者約2,000名を受け入れた。  宿舎(旅館)は和白・古賀・宗像・糟屋にも割り当てられたが、それでも足りずに、香椎宮の社家・武内家、木下家、本郷家、石川家・西尾家・安部家など香椎の住民は民家も開放した。 競技の内容はラジオで放送され、香椎の地名は全国に知られることとなった。 

第3回国体 香椎地区開会式 バレーボール会場にて (香椎町誌より)

 香椎花園西駐車場辺りだったと思われる。 後ろの松林の向こうが香椎潟になる。

 

福岡県香椎事務所が昭和23年(1948年)に発表した「香椎土地区割整理事業」の計画図がある香椎土地区割整理工事計画図   (昭和28年発行 香椎町誌 より)

↑ その後、香椎潟の埋め立て事業が順調に進んだことから、県営住宅の計画地は大きく変更になったものと思われる。 よく見ると、大型遊園地の予定地には現在の香住ヶ丘高校の敷地辺りも含まれている。 香椎花園が開園する昭和31年(1956年)までに、色々と事情も変わり、計画も変更になったのだろうと思う。 しかし、現在までの香椎地区の発展は、昭和23年(1948年)に福岡県が発表した「香椎土地区割整理事業」が基礎(スタート)になっていることは間違いない。 当時の香椎町の世帯数は約1,800戸、人口は約7,500人であった。 

 

稲尾・中西・豊田が汗を流した西鉄ライオンズの二軍球場!

国体終了後、バレーボールコートは再整地されてなくなったが、野球場は西日本鉄道によって設備が整えられてきた。 昭和26年(1951年)、西鉄ライオンズが誕生し国体で利用された平和台球場を本拠地とすると、香椎球場は二軍球場に選ばれた。 西鉄ライオンズの黄金時代(1956年~1958年)を支えた稲尾和久中西太豊田泰光らは、この香椎球場で汗を流していたのだ。 二軍宿舎は球場の南側にあったようだ。 

若き日の中西選手(左)と稲尾投手(右)  (東スポWEBよりお借りしました)

 

ジョー・ディマジオとマリリン・モンローが来福!

昭和29年(1954年)2月8日午後7時30分。 板付飛行場(現在の福岡空港)に着陸した飛行機から、ニューヨーク・ヤンキースのジョー・ディマジオ選手と大女優のマリリン・モンローが下りて来た。 

1954年2月8日 板付飛行場にて    (Kasuga Theaterさんよりお借りしました) 

ジョー・ディマジオ選手は日本各地での野球指導と、マリリン・モンローとの新婚旅行を兼ねて来日したのだった。 メジャーリーグの名選手としてジョー・ディマジオの人気は高かったが、それよりも、各地ではマリリン・モンローを一目みようと大勢のファンが詰め掛けた。

 

 二人は中洲那珂川沿いの国際ホテルに2泊した。(福岡市博物館 アーカイブスよりお借りしました)

左側の低い建物が国際ホテル。 マリリン・モンローは2階の窓から手を振って、ファンの声援に応えたそうだ。 右側が当時の日活ホテルで、後に城山ホテルとなり、現在はビジネスセンター「アクア博多」が建っている。 

 

2月9日朝、二人は別行動で外出した。 マリリン・モンローは西戸崎の米軍キャンプに兵士の慰問に訪れた。  西戸崎公民館に、その日の彼女の写真がたくさん残っている。

 

ジョー・ディマジオ香椎球場で日本のプロ野球選手を指導した。 西鉄ライオンズの某選手が島原の春期キャンプを抜け出して、ディマジオの指導を受けたらしいが、香椎球場での画像が残っていない。 新聞社のカメラマンは、みんな西戸崎に行っていたのであろうか(笑)。

2月10日朝、二人は博多を後に、岩国の米軍基地に向かった。

 

 名島妙見島辺り()までの埋め立て準備が進んだ頃の写真だと思う。  )辺りが現在の「香椎浜イオン」になる。  ()は、松本清張の「点と線」の事件現場辺り。  海の中にポツンと「御島神社」が見えているが分かるかな? 

(西日本スポーツ)       


球場で武田鉄矢・井上陽水がフォークコンサートを開いた!

昭和47年(1972年)7月24日夕刻、この日は朝から雨が降ったり止んだりの天気だったが、香椎球場では野外コンサート「ふくおかフォーク夏祭り」が開かれた。 当時、福岡で人気が出始めていた武田鉄矢率いる海援隊井上陽水らが出演したフォークコンサートだったが、花火を上げ、ファンとともに盆踊りを踊るなど、博多っ子ならではのお祭りコンサートだった。 このコンサートの後、海援隊は「母に捧げるバラード」、井上陽水は「人生が二度あれば」を発表し、人気街道を歩み始める。

海援隊(武田鉄矢)

 

1970年(昭和45年)頃から、西鉄ライオンズ2軍の施設は徐々に百道浜に移され、70年代後半、香椎球場は利用を廃止した。  施設の老朽化もあったろうが、グラウンドの狭さ(中堅110m、両翼85m)も理由の一つだったようだ。  グラウンドはいつの間にか香椎花園の駐車場やゴーカートなどの乗り物場に代わり、観客席は草や木々に埋もれて見えなくなってしまった。

 

香椎花園の閉園が決まると、西日本新聞には過去に存在した「香椎球場」のことが紹介された。

 新聞では、「今も残る外壁」があることを伝えていた。

 

 年が明け、この球場跡にブルドーザーが入り、木々が除かれると長いあいだ隠れていた内野スタンドが現れた。

それが、ページ最初の画像だが・・・もう少し、近づいてみる。

 ここは一塁側内野スタンド跡だが、以前はツタや木々に覆われていてコンクリート壁は見えなかった。 83年前に造られたコンクリートのスタンドは何も語ってはくれないが・・・ジッと眺めていると、当時の観客の声援が聞こえてきそうである。

 

 上の一塁側スタンドの場所は、昭和37年頃の写真では印の辺りだろうと思う。 (香椎花園所蔵)

 

 右上、ジェットコースターの下に三塁側内野スタンド跡が確認できる。 左側の建築物は一塁側スタンドへの入場口だと思われる。

 

↑ 高塚神社側の工事現場へは立ち入り禁止だったが、トラックの運転手さんに頼んで一枚だけ撮らせてもらった。 ジェットコースター下のゴーカート路辺りがホームベースだろうと思う。 一塁側から続くスタンドの傾斜が確認出来る。

 

↑↓ ツタが除かれた一塁側スタンド上部のコンクリート建造物。 歴史が刻まれた傷跡が痛々しい。

 

暫らくすると、この球場跡も香椎花園と共に姿を消してしまうのだろう。 この香椎球場の歴史を振り返ると、街の発展を担った功績は大きい。 ありがとう そして さようなら 香椎球場!

 

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