チューリップ誕生の原点が香椎宮参道にあった!

 

チューリップのリーダーだった財津和夫福岡県出身であることは、全国のファンは知っている。 西南大学のときに、財津が中心になってグループが結成された。 しかし、彼が「香椎高校」の卒業であることは福岡でも知らないファンがいる。 実はうっちゃんも香椎に住むまでは知らなかった。 

                        財津和夫 (香椎高校時代)

香椎の飲み仲間は、当然の如く、香椎高校出身者も多い。 財津和夫と同窓であることは、彼らにとっても心地よいことなのだ。  ところが同窓であることは知っていても、彼のエピソードを詳しく話せる人は少ないようだ。 財津和夫自身が生まれてから高校生までの生活を、あまり世間に話していないことも理由のようだ。 苦しい生活だったようなので、あまり触れられたくなかったのだろう。 ただ、彼ほどの人物になると、世間はそう言う部分も知りたくなる。 メディアや音楽雑誌が過去に掲載した事柄を、少しはネットで調べることが出来る。

 

それによると、両親は終戦後、大陸から引き揚げて来ている。 財津は福岡で生まれた団塊世代だ。 母親が「福岡競輪場(現在の貝塚公園にあった)」の中で食堂を営んで生計をたてていた。 その時代は近くの箱崎辺りに住んでいたのかもしれない。 財津は小学校は名島小学校、中学は多々良中学校を卒業しているようなので、小学校低学年の頃、名島・若宮周辺に越して来たのかも知れない。 よって、彼は自宅から何らかの手段で香椎高校に通い、三年間の青春時代を過ごした。 

 

香椎川に沿ったグランドと校門

 

団塊世代の多くがそうだが、中学生・高校生の時に突然現れたビートルズに衝撃を受けている。 感じた衝撃の強弱は人それぞれだが、その影響を受けて、音楽人生に進んだ若者も少なくはなかった。 財津和夫がその決心をするのは、西南大学に入ってからだが・・・香椎高校在学中に、上の兄からギターを買ってもらい、練習を始めている。 初期の頃のビートルズの曲は歌詞を暗記して、いつも口ずさんでいたと言う。 

 

名島小学校多々良中学校の校区に住んでいたとなると・・・当時、国道3号線との間には、国鉄時代の広大な操車場跡地が広がっていて、国鉄西鉄の線路だけが通っていた。 国鉄の駅は香椎の次は吉塚・・・千早駅は未だ無かった。 西鉄津屋崎線名島駅の次に、名香野駅香椎宮前駅と続いていた。 財津和夫は、西鉄線の名島駅・香椎宮前駅間を利用していたか、或いは、自転車で香椎高校へ通っていたのだろうか。 

参道  香椎宮一の鳥居

 

彼は放課後に参道(勅使道)から香椎宮まで良く歩いた。 参道の両側に生い茂るクスノキ並木の緑が好きだった。 歩きながらビートルズを口ずさんでいたのだ。 財津はチューリップ或いはソロ活動の中で、多くの楽曲を作詞・作曲したが、人生で一番最初の作品は、この参道で生まれた。 2002年の19年前、「九州朝日放送」が制作した「財津和夫 特別番組」の中で、本人がそう語っている。

 

           財津和夫  (2002年 思い出の香椎参道にて 九州朝日放送制作番組より)

 

財津和夫が人生一番最初に作詞・作曲した楽曲はレコーディングもされていないし、世に発表もされていない。  クスノキ並木の参道で生まれた曲名は「並木道」と言う。  特別番組で紹介された歌詞を書き留めておいた。

 「並木道」   作詞・作曲 : 財津和夫

 

星が降る  君の眼に

やさしく甘い  微笑みが

あの日の夢の愛が  

ホラそこに

僕の誓いは  君の眼に

歩こうよ  どこまでも

二人の道を  並木道

 

このタイトルの「並木道」が香椎参道の並木道(クスノキ並木)なのです。 香椎商店街連合会や参道商店街のCMソングに使用したいような甘い歌詞です。 しかし、高校生にしては、少しマセた詩だと思いません?(笑)  逆に言えば、既に高い感性を持ち合わせていた、とも言える。  ビートルズの「アンド・アイ・ラヴ・ハー」や「オール・マイ・ラヴィング」を何回も唄っている間に、彼の身体の中に優しい詩のスタイルが組み立てられて行ったのだろう。 

 

                        香椎宮 奉楽殿前 (2002年)

 

チューリップの楽曲の中で、財津和夫が作詞・作曲を手掛けた曲は多い。 うっちゃんはその中で、敢えて好きな曲を二つ選ぶとすれば、「心の旅」と「サボテンの花」だ。  「心の旅」の  あ~だから今夜だけは~君を抱いていたい あ~明日の今頃は 僕は汽車のなか~  ・・・この情景は、うっちゃんが初めての東京転勤の時と同じ。 1973年正月明け1月3日の夜行列車だった・・・。

 

サボテンの花」は単なる失恋の詩ではない・・・世の中の苦しい時期、人生の苦しい時期を失恋と重ねているのだと思う。  それを次の歌詞の部分が勇気づけてくれる。   この長い冬が 終わるまでに 何かを見つけて生きよう  何かを信じて 生きてゆこう この冬が終わるまで  ・・・管理職時代に会社の経営が一時的に苦しくなり、仲間や部下に早期退職をお願いした時期(長い冬)があった・・・あの時の苦しかった気持ちは今でも忘れない・・・そんな時に、慰めてくれて元気付けてくれた歌詞だった。 

 

時代の中での苦しい時期、人生の苦しい時期とは、コロナ禍の現在も当てはまる。 コロナ禍で仕事が無くなり、人生が狂ってしまった人も多い。 しかし、ワクチン接種も始まり、もう暫くの辛抱だと思う。 頑張りましょう!  もう直ぐ、長い冬(コロナ禍)が終わりますから、新しい何かを見つけて、それを信じて進みましょう! 

 

香椎も都市区画整備事業によって、町の姿が大きく変わった。 古い写真や少し前の街並み・参道の写真、それに2002年の九州朝日放送の制作番組から財津氏の写真画像を借りて「財津和夫と香椎宮参道 (サボテンの花)」のYou-Tube動画を編集してみました。 消えてしまった駅前の風景は、香椎に住む人々にとっては、特に懐かしいと思う。

 

         「財津和夫と香椎宮参道 (サボテンの花)」のYou-Tube  香椎うっちゃん編集

 

チュリップは数々のヒット曲を生み出して、1989年に解散した。 財津はソロ活動に専念したり、作曲家として楽曲を提供したり、或いは何度かチューリップを再結成してコンサートツアーを実施してきた。 2017年、大腸ガンが見つかるが、苦しい闘病生活を経て復活。 彼と同じ我々団塊世代の流行と消費が日本経済の一部を支えて来たのです。 これからは100歳時代・・・財津さん! お互いに、健康に留意して、まだまだ頑張らないかんよ。

 

追記 : チューリップ結成当時のメンバーにベースギターで髭の吉田彰(よしだあきら)さんがいます。 彼も財津氏と同じ香椎高校の同窓生でした。 二人でクスノキ参道を歩きながらビートルズを歌ってました。 肺がんで亡くなられたことは残念です。

 

 ブログ中の財津氏の写真画像は、「九州朝日放送」が制作した「財津和夫 特別番組」からお借りしました。

 

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