源・平の 双方から厚遇された栄西!

 

平家を壇ノ浦の戦いで制した 頼朝は、建久3年(1192年)、征夷大将軍となり鎌倉幕府を開く。 僧・栄西(えいさい=ようさい)は、この時代の前後に活躍した。 

                                                      

 

この頃の博多の様子は・・・平安時代後期、既に鴻臚館は無く、交易の中心地は博多の町に移り、宋の商人(綱首)たちの活躍によって栄えていた。 博多の交易は、 清盛が樹立した平氏政権が主導していて、平氏の繁栄は貿易によって得られる莫大な利益に支えられていた。 

                    清盛

清盛は直接赴任せずに、異母弟の頼盛(よりもり)を大宰府大弐(次官)に任じて博多に下向させた。 大宰府大弐は博多での交易の全てを司る実質的な最高責任者であった。 頼盛(よりもり)は博多の人々には大切に接した。 香椎宮頼盛に神領を寄進し、領家(安全担保)になってもらった。 

頼盛は香椎湊に貿易船の入港を許可し、香椎の町は賑わった。 香椎宮東の谷には宋の商人が住み始め、小さなチャイナタウンが出来たと言う。 

 

既に遣唐使派遣は中止されていたので、中国(宋)へ学びに行く修業僧は貿易船を利用するより術がない。 延暦寺(天台宗)で修業していた栄西も博多にやって来た。 何故か、頼盛(よりもり)は栄西に宗教家としての特別な才能を感じて、彼の旦那(生活の面倒をみる)となっている。 そんな縁で、栄西香椎宮にも親しく訪れるようになっていた。 仁安3年(1168年)、栄西香椎宮に航海安全祈願をして、宋の貿易船に乗り込んだ・・・栄西27歳だった。 

 

天台宗を更に極める目的だったが、当時、宋では「禅宗」が全盛期で・・・栄西は、その教えに大いに感化された。 一度帰国して、禅宗を深く学ぶべき準備を整えて、再渡航の機会を待っていたが・・・国内の状況が大きく変わりだした。 源氏の力が増してきている。 そんな中、栄西は今津の地主の発願で、安元元年(1175年)誓願寺を創建している。 国内の政局が益々混迷してきている中、栄西はこの誓願寺で更に10年以上の間、再渡航を待つことになる。 その間、文治元年(1185年)、壇ノ浦の戦で平氏は滅んでしまう。 

                   壇ノ浦合戦       (下関赤間神宮所蔵)         

しかし、 頼盛 頼朝から命を助けられている・・・頼盛の母(池禅尼・藤原家出身)から頼朝は、以前に恩を受けていた。

         池禅尼  と  源 頼朝       源平合戦図屏風)

 

そんなことから、頼盛頼朝から優遇を受けていたのだった。 この関係が博多の町を混乱から救うこととなった。 そんな中、栄西は文治3年(1187年)宋への再入国を果たす。 博多の町と港は鎌倉の頼朝にも活動を認められ、日宋貿易そのものは拡大して行った。鎌倉幕府日宋貿易が重要であることを認識していた。

 

栄西は宋に渡った翌年、貿易船に託して菩提樹の木を香椎宮に送っている。 お釈迦様がこの木の下で悟りを開いた・・・仏教にとって大切な木だ。 香椎宮はこの木を境内の東の地に植えた。 これが日本で最初に育った菩提樹となる。

 

4年間の修業を終えて、建久2年(1191年)、栄西は帰国。 すぐさま、香椎宮菩提樹が植えられた場所に、建久報恩寺を建立した。 禅の悟り(臨済宗)を世に広める為の日本最初の禅寺?・・・だった。 栄西はその足で京に向かい、禅宗を広めるべく活動したが、天台宗真言宗に阻まれ、うまく進まない。  頼盛は既に病気で他界していたが、頼盛から良く聞いていた鎌倉の 頼朝を訪ねた。

 

頼朝頼盛から栄西の才能を聞いていたのだろう。 禅の話をゆっくり聞いてくれた。 頼朝は、武士の心を落ち着かせる座禅を基本とする臨済宗に大いに興味と理解を示した。 源氏として、また鎌倉幕府として栄西臨済宗の布教を認め、建久6年(1195年)博多に聖福寺、建仁2年(1202年)京都に建仁寺を開山させた。

                 博多  聖福寺

 

ここで不思議に思うことは、栄西と言う人物が平氏からも源氏からも厚遇されていたこと・・・うっちゃんは思う・・・ただの世渡り上手なのではなく、僧侶としての知識・教養に加えて、人間的魅力に溢れた独特のオーラを持っていたのではないだろうか。

 

香椎建久報恩寺は日本最初の禅寺に間違いはないが、布教のための学校の意味合いが強く、今では、博多の聖福寺が日本で最初の禅寺とされている。

                     

香椎宮から東に歩いて数分。建久報恩寺を訪ねてみた。

 

            

報恩寺に植えられた菩提樹が日本最初であることは間違いないと思う。 ここから、奈良の東大寺など全国の寺社に株が分けられた。 その後の火災や島津軍の戦火によって、建久報恩寺菩提樹は焼けてしまった。 

                              本堂

昭和になって本堂や観音堂が再建され、東大寺へ株分けした菩提樹を、再度株分けして送ってもらった。 6月初旬は、花が甘い香りを漂わせている。 

 

          

東大寺の菩提樹とは、DNAは同じなので、「日本最初の菩提樹」と謳ってもよいのではないか。

 

二度目の帰国の時、栄西は茶の種を持ち帰り、それを脊振山に蒔いて栽培した。 茶が健康に良いことを記した「喫茶養生記」を幕府に提出し、喫茶の風習を世に広めた。 

 

鎌倉時代になっても、博多の町は日宋貿易で潤っていたが、香椎宮平氏との関係が深かかったことを咎められ、大宮司の武内公友は鎌倉幕府から左遷させられた。 そして、香椎宮石清水八幡宮の管理下に置かれ、苦しい時代が長く続いた。

 

香椎宮探訪

香椎浪漫                                                       

 

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