「仁」に育てられた歴史浪漫の町!

 

唐人町(とうじんまち) ①」の続きです。

                  

地図中に黒田藩が漁をしていた「簗所跡印)」がありました。 黒門川通りを挟んで向かい側に、日蓮宗の「妙法寺印)」があります。 二代藩主黒田忠之公から、当時の博多湾沿いに三千坪を拝領されて開山したお寺。

 

      

                   

 三間一戸の楼門が素敵です。 寺院としての施設を生かして、法事のみならず、コンサート、英会話教室、茶道教室などを開いて、地域交流も盛んなようです。 境内ではゲンジボタルの繁殖に取り組んでおられ、6月の観蛍会には沢山の訪問者で賑います。 何でお寺でホタルの養殖を???・・・現ご住職が東大の水圏生命科学科卒業で、ホタルの生態研究もされています。 

                  迦陵頻伽    妙法寺H/Pより   

 本堂の迦陵頻伽(かりょうびんが)は、眺めているだけで心身を癒してくれそうです。

 

 黒門川通りから裏の通りに入り、浄土宗の「大圓寺(だいえんじ 印)」を訪れます。 本堂の庭から・・・本堂と五重塔と寒桜?が作るバランスの良い構図で撮れました。

                  

大圓寺は平安時代中期に早良郡(区)で天台宗として創建され、何度かの荒廃を繰り返しましたが、二代藩主黒田忠之公の時に援助を受け、この地に移転して来ました。 五重塔は福岡県初の木造五重塔(高さ26.52m)として、平成7年(1995年)に建立されました。 大変美しい五重塔です・・・が、少し高い場所に建っているように見えませんか?。 それは、・・・

                   

 大圓寺の玄関に向かう坂道です。 寺院は少し高い土手の上に建っているのですが・・・その土手とは元寇防塁跡なんです。 ですから、五重塔も遠くから見ると、七重の塔のように高く見えます。 

 

                  

 玄関前に防塁石が展示用に残されています。 元寇防塁は九州の御家人(国)が担当地域毎に築いています。 よって、地域毎に石の産地や形が異なっているのですが・・・この西新・地行の築造担当国だけが不明なのです。 気が付いたことは、全体的に石の形が丸いですよね・・・これは大きな川の中流・下流で採れる石・・・筑後川流域を支配していた小さな豪族集団に担当させた、などと考えるのは行き過ぎですかね。

 

 黒門川通りの場所は、当仁小学校前です。

 

                 

当仁の「」は「じん」または「にん」と読みます。 「当仁」は「とうじん」と読んで、唐人町にかけて付けられた・・・と思っていました。 ところが、「当仁=とうにん」と読み、「唐人町」とは関係ないとのことです。 地元的には町名から「唐人小学校」と命名されるべき、と思うのですが・・・何か謎(浪漫)が隠されているようにも思えます。

 

開校・命名されたのは明治25年(1892年)。 調べてみますと、論語(儒教の教え)の一説「子曰、當仁不譲於師」に由来するようです。 「子(し)曰(い)わく、に当たりては、師(し)にも譲(ゆず)らず」。 「子」とは勿論、「孔子」です。 「」とは孔子の教えの中心となるもので、「人を愛する、思いやる」と言う道徳的概念を意味します。 「」をもって行動する時は、師匠にも遠慮することはない。 これは・・・唐人町で開かれた藩校「甘棠館(かんとうかん)」の学長となった亀井南冥(儒学者)が、孔子の教え(儒教)を軸として、子弟の指導に徹したことと関係ないのか・・・。 明治25年・・・市役所勤務の誰かが、亀井南冥の偉業と教えを町の中に残そうと企み・・・「當仁不譲於師」の一説を探し出してきて、「とうじん=唐人=とうにん」と掛け合わせたのではないだろうか・・・うっちゃんの勝手な仮説(浪漫)です。 甘棠館(かんとうかん)と亀井南冥(かめいなんめい)については、後に触れます。

 

黒門川通りから路地に入り、地図に向かいます。 赤い鳥居の神社が・・・。

                   

 お稲荷さんだろうと思ったら、果たしてそうでした。 社名は「八橋神社」ですが、江戸時代中期に伏見稲荷神社より勧請され、鳥飼八幡宮境内に鎮座していました。 明治時代にこの地に移転して来たようです。 

 

 境内の左側で、珍しい梅の木を見つけました。 梅の木の名前は「想いのまま」と書かれています。 右の写真を見て下さい。 一本の木に白梅と紅梅の花が咲いています。 接ぎ木・挿し木ではなく、木そのものが複数の遺伝子を持っているそうで・・・同じ枝に、来年は白梅なのか紅梅なのかは「想いのまま」、変幻自在らしいです。

           

           

八橋神社のこの場所に、江戸時代は黒田藩の藩校・甘棠館(かんとうかん)がありました。 その跡地を示す碑は隣の駐車場前に立っていました。

                 

江戸時代の天明4年(1784年)、黒田福岡藩は同時に二つの藩校を開校しました。 一つは東学問所修猷館、そして西学問所が甘棠館(かんとうかん)です。 修猷館はお城の上ノ橋門前(現三井住友海上ビル)にあって、現在は西新に移転。 甘棠館は学長を務めた儒学者・亀井南冥(かめいなんめい)の自宅があった唐人町に開校。

                  

両校はライバルでした。 開校した1784年と言えば、志賀島で「金印」が発見された年です。 亀井南冥は鑑定書(金印弁)を著して・・・この時は修猷館をリードする勢いがあったと思われます。 そんな中、寛政2年(1790年)、徳川幕府朱子学を基本とする「寛政異学の禁」を発令・・・それによって、甘棠館は廃校となります。  朱子学では、体制の維持を目的とした「主君の命令には絶対服従=」を教えています。 亀井南冥が教えの軸とした儒教・・・例えば「當仁不譲於師」とはかなり相反します。 幕府が推奨する朱子学では、「」よりも「」を優先するからです。 歴史を語るに「もしも~ならば」は言えないのですが・・・もしも、甘棠館が幕末維新まで存続していたならば、黒田福岡藩はもっと多くの人材を明治政府に輩出していたことでしょう。

 

関連ブログ=「加藤司書(薩・長・筑・土・肥) ①~③ 」 

 

唐人町(とうじんまち)③」に続く。

* 町地図はマピオンを借用しています。 

 

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