立花宗茂と香椎宮(私本香椎宮炎上)④
 
立花宗茂と香椎宮(私本香椎宮炎上)③ の続きです。
 
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 1章 武内親子との出会い (宗茂9歳)       
  2章 立花道雪の跡取り (宗茂15歳)       
 3章 養父立花道雪の死 (宗茂19歳)       
  4章 嗚呼壮烈岩屋城 (宗茂20歳)       
 5章 立花城の戦い(立花城・御飯の山城)       
 6章 香椎宮炎上       
 7章 柳川十三万石領主 (宗茂21歳)       
  8章 肥前名護屋城 (宗茂26歳) あとがき

 
 
● 6章 香椎宮炎上
 
8月12日、島津軍は昨日の反省からか、先に御飯山城を攻め落とすこととなり、正面左右から5千名の兵が押し寄せた。御飯山城は小さいので上り口はさほど多くない、兵が多く寄せてきても、城まで近づける人数は限られている。 黒木正信は昨日と同じように砦の縁に兵を張り付け、上から鉄砲・弓で応戦した。 香椎宮の社人達も石を島津兵目がけて投げ付けた。 平成9年、福岡市教育委員会が御飯の山の発掘調査の際、城のふもとからまとまった多数の大石を発見した。この時、城から落された石であろう。
 
                         御飯の山(おいのやま)城
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山の中腹に島津兵の死体が積み重ねられるように増えてきた。 それでも、その死体を踏み台にして次から次へと兵が乗り越えてきた。 昼過ぎには昨日と同じ門が破られ進入されたが、黒木正信ら立花勢が白兵戦で切り込み、これを防いだ。日が落ちるとともに島津勢は退いた。凄まじい戦いだった。60名いた香椎宮勢は30人に、100人いた立花城勢も30人までに減っていた。黒木正信は白兵戦の時に首と胸に傷を負った。
 
黒木正信は14歳の武内氏続を呼んで言った、
「氏続殿、良く戦われた。お見事である。これで殿と約束した2日間を持ちこたえた。 あとは負傷した者を連れ、残った者全員で立花城へ退却することだけじゃ。 闇に紛れて長谷(ながたに)の間道を行けば2時間で城に着く。拙者一人がこの砦に残る、この傷ではもう皆と一緒に歩けない。それに火の気や物音が砦から消えると、敵に感づかれるからのお」
思ったとおり、氏続が自分も残ると渋った。
「氏続殿、拙者がこの砦に自ら名乗り出たのは、老いた身だからじゃ。 もう大友家と立花家には充分すぎるほど働いた。 それに、そなたを城に帰すのはお父上と殿に約束しておる」
 
子(ね)の刻(深夜0時)ごろ、負傷者を含む60名が御飯山城から立花城に移動した。立花宗茂は戻ってきた60名に労いの言葉をかけた。
「自らを犠牲した皆の働きにより、立花城はほとんど無傷だ。2日も時間を稼げた。 援軍到着まで最後の一兵になろうと出来るだけ長く戦うのだ」
武内親子もお互いの無事を喜ぶと同時に改めて覚悟を固めた。
 
8月13日、朝一番に御飯山城から火があがった。黒木正信はその前に自刃していた。武内氏続は立花城から御飯山方面を見ながらつぶやいた、「黒木様・・」
御飯山が落ちたと同時に、立花城の長谷口も含め全方向から島津軍が襲ってきた。九州一の山城と言われる立花城に、3万近くの島津軍が毎日のように総攻撃をかけるが、宗茂の機敏な指揮と道雪が育てた統制の整った家臣団の働きによりなかなか落ちない。武内氏永が指揮をとる香椎宮神人勢も立花軍に劣らぬ活躍だった。5日間が経過した。
 
8月18日昼過ぎ、朝から続いた島津軍の攻撃が突然止んだ。 しばらくすると、家老の内田鎮家(うちだしげいえ)が居なくなった、と騒ぎになった。 内田鎮家しげいえ)は、宗茂に相談することなく単身で島津軍の本陣へ乗り込み、投降して島津忠長伝えたのだった。 
「我が殿(宗茂)は、いま迷っていて・・・降伏を模索しております。 殿の心が決するまでの間、攻撃を中止して頂きたい。 拙者が人質として、ここに残ります」
夕刻になっても、勿論のことながら宗茂からの連絡はありません。 島津忠長は苛立ちながら、「未だか?」と催促します。 内田鎮家は答え。 
「いま、再び攻撃すれば、和議の話は水泡と帰します。 もう一日だけお待ち頂きたい」
 
19日の夕刻、下原の島津軍の本陣は、人の動きで騒然としていた。 黒田官兵衛を軍監とする秀吉の援軍(毛利軍)が下関に到着した知らせが入ったのです。 
内田鎮家は薄笑みを浮かべると、静かな口調で島津忠長に言います。
「殿(宗茂)が降伏を検討していることは偽りで、拙者一存の策で時間稼ぎをしておりました。 自分の目的は果た・・・斬るが良い」
側にいた島津の武将が、怒って刀を抜こうとしたが、島津忠長が手で制止した。
「大友家には良きご家来が多いことよのう」
と言って、内田鎮家を称え、脇差や馬を与えて立花城へ送り返したのです。 この時の話を題材としたのが、新天町の飾り山笠(表)でした。
 
               飾り山笠新天町(表) 武士心薫立花城   人形師:亀田 均
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島津忠長は思った・・・秀吉援軍が到着するまで最低2日はかかるだろう。 2日間で勝負をつけよう。 立花城を奪い、先に落した宝満城とともに島津軍が立ち篭れば、秀吉の援軍とも充分に戦える。
 
8月20日、島津軍は早朝から4つの砦に大軍を集中し猛攻撃を仕掛けてきた。 昼ごろ、白岳の破られた 21日も猛攻撃が続き、三日月山方面から直接本丸近くが狙われた。 宗茂は砦の間を駆け回り、指示と檄をとばした。 夜になり戦いは止んだ。落とされた三日月山頂上の砦は平地で、その夜は島津軍が火を焚いて駐留した。この2の島津軍の攻撃による立花の損害は大きかった。
 
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8月22日、島津忠長の本陣は朝から落ち着かない動きをしていた。 下原、和白方面に陣取っていた島津方豪族もざわざわしていた。 時には大きな怒鳴り声も聞こえる。 三日月山や白岳の砦に居座っていた島津軍も平地に撤退し始めた。 上から眺めていた立花軍には何が起こったのか解からなかった。 
 
朝早くの使者によると豊後(大分)にも四国の長曽我部(ちょうそかべ)の援軍が上陸したとのこと。このままでは筑後と肥後で分断され全滅すると悟った島津忠長は撤退を決意したのである。 昼過ぎ、元は大友家に従っていたが島津に通じていた宗像、麻生、筑紫、原田ら筑前・筑後の豪族の使いが立花城へ降伏を伝えに来た。 筑後八女の星野吉実の使いは来なかった。
 
久山から大宰府に抜ける山道を、島津忠長を含む島津軍の一部が動き始めていた。午後になると島津に服していた各地の豪族が騒ぎ始めていた。 もともとは竜造寺や秋月の配下であったが、島津の勢いに屈して立花城攻めに参加していた豪族である。 領地の安堵と恩賞を期待していたのに、このままだと全てが無くなるのである。不満が吹き出し始めた。 夕方までに薩摩の島津軍は規律正しく撤退をしだしたが、幾つかの豪族が暴徒化し始め、民家の中の食料などを強奪し家屋に火をつけながら退却しはじめた。
 
暴徒化した豪族はますます人数が多くなり、博多方面へ向かう集団もあった。 集団の一部が下原から老いの谷(香椎宮北側)に入ろうとしていた。 武内氏永は瞬間に
「しまった!香椎宮が危ない!氏続!すぐさま神人の兵を集めよ。 城を下り香椎宮を救いに向かう」
指示を出したその時だった、薄暗くなり始めた御飯山の少し右手から小さな火柱が上がった。
「父上!あれは?」
「遅かったか、無念だ」
 
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立花城本丸下の砦に、生き残った香椎宮の神官、社家、神人兵100人近くが力を無くし座り込み、香椎宮の方向を見続けていた。 火柱は何本にもなり上空の空が真っ赤に染まった。氏続は立ったまま流れる涙を拭おうともせず、炎を眺めていた。14歳の戦いが終わった。香椎宮一帯は一晩中燃え続けた。
 
8月23日、武内氏永立花宗茂から本丸へ呼ばれた。
「武内殿、香椎宮を守れなかったこと誠に申し訳ない。許してください。 我々は黒田官兵衛殿の命により、只今から島津軍を追う。 そして父の宝満城岩屋城を取り返さなくてはならぬ。 一部の兵を残し、留守にするが宜しくお頼いします
立ち上がって部屋を出ようとした時にもう一度振り返り、
「先ほど黒田官兵衛殿の使いによると、明日の朝早く小早川隆景殿が到着されるそうです。武内殿のことも伝えている故、香椎宮のことなど今後のことについては何なりと相談されよ、とのことです。 それから、氏続殿にお伝え頂きたい。 この度の働き、この宗茂が褒めておったと」
                  
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宗茂は兵を従え島津軍を追った。なんと島津軍のしんがりを務めていたのは星野吉実の軍だった。 星野吉実は若杉山の西方1.5kmに位置する高鳥居城(たかとりいじょう)に立て篭り宗茂軍を待った。島津軍退却の捨石となったのである。 高橋紹運という名武将の凄まじい戦死を見届けている吉実は、弟と300名の兵で丸1日を戦い潔く自刃した。大友を裏切ったという武士としての償いの念があったのかも知れない。宗茂はそのまま軍を進め、宝満城岩屋城を取りもどした。
 
立花城への帰路、星野吉実(よしざね)の首を那珂郡堅粕村に塚を造り丁重に葬った。その塚は村人から吉実塚と呼ばれていたが、いつからか吉塚(よしづか)となり、現在は地名(博多区吉塚)として残った。 吉塚商店街入り口近くの「吉実塚は現在も地元民によって守られている。 
 
                           吉実塚(地蔵尊)   
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