足利兄弟と香椎宮多々良川合戦(
 
 
正午過ぎ、多々良川に陣を固めたのは足利軍のほうが早かった。尊氏は多々良川北側の丘(陣の腰)の本陣に腰を下ろした。
                                                  陣の腰
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多々良川の南側、九州大学から流通センターあたりの野原や川辺を2万騎の天皇軍が埋め尽くしている。 北風はますます強く、風下の天皇軍は舞い上がった砂で目も開けられないほどだった。法螺貝が鳴り響き、まず弓矢の応戦。足利軍の矢は北風に乗り、敵軍の奥深くまで勢い良く届くが、天皇軍の矢は風に押し返され途中で川に落ちる。 天皇軍が焦り始めた頃を見計らい、川の上流に陣取っていた直義軍と少弐軍が対岸の天皇軍に襲いかかります。 天皇軍では菊池武敏に次ぐ副大将の地位である阿蘇惟直(あそこれなお)の軍が、直義軍と少弐軍を迎え撃った。 双方互角の戦い。しかし少弐頼尚は父の仇である阿蘇軍を一騎一騎と切り崩し、徐々に前線を開いて行きます。 直義も少弐頼尚も赤鬼のような血相であった。
 
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天皇軍大将の菊池武敏はそれでも「敵は少勢」と遠くからのんびり眺めていたが、合戦の中に白い馬の武将を見つけると、
「ややっ!あれは尊氏の弟の直義と見える」
そして傍に居た武将に命じた、
「200騎ほどを引き連れ、直義の首のみを討て。 それでこの戦いは終る」
 
それより少し前、尊氏の本陣に、顔が涙と泥でくしゃくしゃになった直義の使いが着いた。
「我が殿より大殿へ、形見としてこれを届けよ、と・・・・うっ、うっ」。
尊氏が手にしたものは、直義の鎧の片袖であった。尊氏は片袖を強く握り締め、搾り出すような声で言った、
「直義! 死ぬ気かあ、ならぬぞお!」
その時だった、菊池武敏の本陣から200騎ほどが直義の軍に向かって走り始めた。それを見た尊氏はとっさに馬に飛び乗り、
「全騎、突撃~ッ  直義~ッ」
と叫びながら、菊池軍に向かってまっ先に走り出した。
同時に足利軍と大友、島津勢の全騎が雄たけびを上げ突進します。 武内覚隆(ただたか)も香椎宮神人兵に向かって叫んだ
「尊氏様をお守りするのだ!」
尊氏の勇姿に力を得て、全軍一気に攻勢に出たのです。 驚いた菊池武敏軍が応戦します。菊池軍の兵士の旗さし物は風で飛ばされ、味方が分からず混乱していた。 足利軍は鎧に着けた綾杉の枝で味方を確認し合っている。 怒号が飛び交う、凄まじい闘いが続いている。
 
                足利尊氏                                足利直義
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暫くすると菊池軍の後ろのほうで、うおおッと地が響くようなどよめきが起きます。
「今のは何か」
と菊池武敏が叫びます。馬で駆けつけた武敏の家来が引きつった顔で報告します。
「殿、松浦党一族が寝返りました」
「な、な、なんと」 
菊池武敏はうろたえ・・・思わず、
「う~ッ、ひとまず退け~」
と瞬間的に叫んでしまった。この一言が戦況を大きく変えることになった。 これで大軍の中に混乱が生じ、阿蘇惟直の軍も直義軍と少弐軍の前に犠牲者が増えていった。 松浦党に続いて神田党龍造寺党相良党と寝返りが広がるのにさほど時間は掛からなかった。 秩序が崩れた大軍の敗走を、もはや立て直すことは出来なかった。
 
阿蘇惟直は後退した大宰府の先で戦死し、菊池武敏は本拠地の肥後菊池城まで逃げ延びている。昼過ぎに始まった戦いは夜に落ち着いた。箱崎宮に本陣を移した尊氏のもとに、大友貞宗、小弐頼尚ら各大将が集まってきた、最後に全身返り血を浴びた直義が戻ってきた。 兄弟は言葉を交わすことなく、ただ潤んだ目で頷きあった。
 
1ヶ月後、九州の諸豪族を平定した足利軍は数万の大軍に膨れ上がっていた。4月3日、足利軍は筥崎宮で戦勝祈願をし、尊氏は海上軍を従へて博多から船で、直義は陸上軍を従えて北上。海上軍、陸上軍ともに筥崎宮八幡神(応神天皇)の八幡大菩薩の旗をなびかせ北上したという。
 
5月25日、摂津の湊川で楠正成軍を破り、6月入京する。8月15日、光明天皇(北朝)が即位後、11月に室町幕府を開いた。その前に後醍醐天皇は吉野に逃れ、ここに南朝を置く。以後60年間、南北朝が続くことになる。 
 
                              後醍醐天皇
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2年後の暦応(りゃくおう・北朝)元年(1338年)、尊氏は征夷大将軍となった。 南北朝時代の間、香椎宮の年紀(年号)記載は、勿論のことではあるが北朝を使用している。
 
幕府を開いた尊氏は香椎宮の神威に感謝し、神領を安堵すると共に、新たに多々良、名島、唐の原、和白、三苫、三代など800丁の神領を寄進したことが香椎宮資料館の記録に残っている。
 
               寄進状 (香椎宮資料室)    源朝臣とは尊氏のことです
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また、香椎宮の大宮司の名前に尊氏の「氏」一字を与えている。 武内覚隆(ただたか)は武内氏覚(うじただ)と名前を改めた。 その後の武内家から出る大宮司は、室町時代に「香椎宮編年記」を再編した武内氏信、1586年の戦国時代に島津勢が攻めて来たとき、立花宗茂と共に立花城で戦った武内氏永、など等、彼らの名前の「氏」は尊氏の「氏」なのです。 香椎宮史によると、1374年三代将軍足利義満は香椎宮に使者を送り、南北朝合一成就と天下太平を祈願している。 多々良川合戦以降、足利幕府から厚い信任を受けていた香椎宮がうかがえる。
 
うっちゃんがもう一言付け加えておきたいのが、弟の直義のこと。尊氏を調べている内に、彼に興味を持ってしまった。 10倍近い天皇軍に勝利した「多々良川の戦い」は「奇跡の戦い」と言われている。 しかし直義は鋭い状況判断で、相手軍の寝返りを誘う細かな戦術を組み立てていたのではないだろうか。 直義が鎧の片袖を形見として届けたことは「太平記」にも見える。 ただこれも兄の決起の瞬間を促す、直義の筋書きのひとつだったのではと思われる 勇猛果敢であり、しかも冷静沈着。 尊氏の天下取りに不可欠の弟だったことは間違いない。
 
 (中学歴史の教科書では源頼朝の肖像画だと教えられたが 、近年では多くの学者が足利直義としている)
                                                       足利直義
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幕府開設にあたって、建武式目の制定など政治の実務は直義が行い、尊氏は軍事を抑えていた。 この2頭政治が後々に悲劇を生むことになります
やがて彼らは意見の対立から争うこととなり、太平記によると尊氏が直義を隠居させ、暗殺を命じている。 しかし直義の死の直前、尊氏は直義を従二位に叙するよう、当時の北朝天皇である後光厳天皇に申し願いを出しているのです
これは直義派の武将の怒りを和らげる為だと言われているが、尊氏には幕府のトップとして心の奥で感じていた世の中の無情、その為に誰にも話せないでいた弟への強い想いがあったのではないだろうか。 この兄弟の争いは、同じ源氏の頼朝、義経兄弟の話しと重なってしまう。
 
 この合戦の犠牲者は、双方で数千人に及んだそうです。 日本の歴史を左右する大きな戦いがこの多々良川で行われたことを記す石碑が流通センターに建っています。
                           多々良川合戦跡碑
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足利兄弟と香椎宮多々良川合戦(完)
 
参考文献:古代・中世の香椎 (宮川 洋)
    :足利尊氏 (高瀬 光壽)
    :私本太平記 (吉川 英治)
    :香椎宮史
    :香椎東校区創立35周年記念誌  
    :H/P 筑紫野しろのき    
 
*尊氏・直義・後醍醐天皇肖像画はパブリックドメイン確認済
 
*幾つかの説から興味ある説をつなぎ、うっちゃんなりの解釈と想像を加えています。
2013年にホームページ「香椎浪漫」に発表したものをブログで再投稿しています。
 
香椎宮探訪