松原水と平尾浄水場 (福岡市の水 ③)
↓ 次の写真は、東公園内にある「松原水」と呼ばれた井戸跡です。
松原水
↑ 明治22年4月1日、福岡部と博多部が合体して福岡市が誕生しました。 市域は現在の67分の1、人口は約5万人で市役所の職員は41名でスタートしました。 そして明治29年、福岡市は東公園の松原内に、市民の為の市設の井戸を掘ったのです。 これが福岡市の上水道事業の始まりではないかと思うのです。
博多部は鎌倉時代から人口が増え始めました。 各々個別の井戸を持っていましたが、明治時代初期頃になると、水量が低下し、家庭や商店が出す汚水によって水質も悪くなります。 そこで、福岡市は飲料水確保のために、先に記したように市設の井戸「松原水」を掘ったのです。
松原水
「松原水」は福岡市によって「取り扱い規定」が定められ、販売されていました。 市営の施設の為、昼夜、看守がいました。 水を汲んで販売できる業者は市から許可証を交付された業者のみで、大正時代には50店ほどあったそうです。
松原水を販売する大八車
↑ 許可を得た販売業者は大八車に水桶十二個を積んで戸別に回って配達販売します。 ちなみに、料金は一桶(18リットル)が五銭だったようです・・・この頃の一銭がどれ程の価値なのか分からないけど・・・水にしては、高かったのではないか、と思っています。 お風呂や洗濯用の水は別として、飲み水は貴重だったのでしょう。
↓ 井戸の横の石碑に、皇太子・嘉仁(よしひと)親王殿下(のちの大正天皇)が明治33年10月下旬に、この井戸の水を飲まれた、と彫られてています。
嘉仁親王殿下 御料水 石碑
嘉仁親王殿下(大正天皇)は、明治33年(1900年)の10月から約2ヶ月間に渡って北部九州一円を行啓され、各地の産業施設を視察されました。 松原水を訪問されたのは10月下旬となっているのですが・・・嘉仁親王殿下(大正天皇)は、10月28日に香椎宮を参詣され、裏山で松茸狩りを楽しまれた、と記録に残っています。 同じ日に西公園で桜の木の植樹もされています。よって、10月下旬とあるのは、28日だと思われます。
福岡市は都市の整備が進むにつれ、ますます人口が増え続きます。 松原水に限界があることは分かっていました。 明治35年(1902年)にコレラが大流行します・・・これを機に、福岡市は上水道の設置を急ぐことになります。
福岡市は水資源に恵まれている、とは言えません。 全国の20政令指定都市の中で唯一1級河川がありません。 多々良川、御笠川、那珂川、室見川などが博多湾に注いでいますが、何れも中小の川で、大きい河川が流れていないのです。
それでも、福岡市は上水道創設計画の練り直しを繰り返し、大正5年(1916年)、室見川上流に曲淵(まがりぶち)ダムと平尾に浄水場の工事に着工します。
建設中の曲淵(まがりぶち)ダム (福岡水道局絵葉書より)
福岡市にとって初めてのダム建設に難航を重ねますが、7年後の大正12年(1923年)3月、完成させます。
曲淵(まがりぶち)ダム (2017年5月撮影)
↑ 御影石の切石で覆われ、そのたたずまいと格調の高さにダムファンから人気があります。 歴史的、技術的に価値ある水道施設として「近代水道百選」に選ばれました。
形式は重力式コンクリート式で、堤高は45m、堤長は160mです。 現在も水道用に貯水され、平尾浄水場が閉鎖(昭和50年)された後は、夫婦石浄水場へ送水しています。
完成当時の平尾浄水場 (福岡水道局所蔵写真)
↑ 曲淵ダムから送られた水を平尾浄水場で飲み水にして、大正12年3月1日から給水が開始されました。 大正12年の福岡市の人口は143,000人。開始時はその内、35,000人への給水でした。 浄水通りは給水管を埋める為に造られ、上に建物が建てられないので道路にした、と聞いています。 平尾浄水場の跡地は整備され福岡市植物園となりました。 当時は浄水場を高台に造り、高低差を利用した自然落水で浄水通りの給水管を下って各家庭に送られたのです。
上水通り(現在)
↑ その上水通りは洒落たお店や高級マンションが建ち並んでいます。
昭和50年頃・閉鎖前の平尾浄水場
↑ 浄水場の北西側に動物園が確認出来ます。 浄水通り両側は既に住宅街になっています。
配水池点検用通路と入り口建物
配水池とは給水直前のキレイな水道水を溜めておくところです。 地下にある点検用通路の入り口建物が浄水場写真の●印のところにありました。
↓ この配水池点検用通路入り口の建物が、植物園正門近くに移築されています。
移築された配水池点検用通路入り口の建物
↑ 植物園正門入って左側。 写真右の道路は動物園に通じています。
↑ レンガ積みの建物は大正時代の趣が感じられて、なかなか良いですね。 建物右側に「福岡市上水道 平尾浄水場跡」と彫られた石碑が立っています。
↓ 建物四面の上部に額が掲げられています。 正面は右から読んで「配水池」ですが・・・他の面は、・・・。
■ 正面 配水池(はいすいいけ)
左右と後ろの面には、建設当時の技術者の愛情と心意気が込められている、と説明書きがありました。
■ 右面 碧潤聲(せきかんせい) 水の音は深緑の中を流れる渓流の響きのように心地よい。
■ 後面 浄而豊(じょうじほう) 水道水がいつまでも清らかにして豊かに(不足なく)続くように。
■ 左面 讃水徳(さんすいとく) 水は四徳(仁・義・礼・智)を備えており、これを讃えるとともに、人も見習うべきである。
水からは色々と教わりますね。 黒田官兵衛如水の「水五訓」を思い出したのですが・・・内、三つを紹介します。
● 自ら活動して他を動かしむるは水なり
● 常に己の進路を求めて止まざるは水なり
● 障害にあい激しくその勢力を百倍し得るは水なり・・・・
人間に例えての教えなんでしょうが・・・水そのものの場合は怖いですね・・・九州北部豪雨のような災害に襲われます。
それでも、人類は水を治して永久に付き合っていかねばなりません。
水の神様を怒らせると、昭和53年(1978年)の大渇水のような、逆の苦難も強いられます。
湖底をさらした南畑ダム (昭和53年・福岡水道局絵葉書より)
287日間に及ぶ給水制限は本当にマジ大変でした。 水の大切さを知り、節水の心がけが一番強いのは福岡市民ではないかと思っています。
でも、思うんです・・・福岡市は「松原水」から始まって、苦難を乗り越え、良くここまで来たもんだって。 それでも、市の人口は増え続けているし・・・これからも、水の徳を讃えながら、永く付き合って行くことになるのでしょう。
参考文献:「福岡市の水道2017」、「福岡博覧(海鳥社)」、「福岡市の水源」、他
福岡市と博多湾を想う