博多人形師・中ノ子家窯跡 
 
武士の町「福岡」と商人の町「博多」が出会う橋・・・それが「福博であい橋」です。 その橋の中洲側のたもとに立っている「三人舞妓」のブロンズ像を、皆さんは良く目にしておられると思います。 大正14年(1925年)、パリで開かれた万国現代装飾美術工芸博覧会において、博多人形師・小島与一が銅賞を受賞した作品がモチーフとなっています。
 
であい橋「三人舞妓」ブロンズ像               銅賞の博多人形「三人舞妓」小島与一作
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名人と呼ばれる多くの博多人形師がおられますが・・・福岡市民が一番良く知っている人形師が小島与一(明治19年~昭和45年)でしょう。 
 
    名人 小島与一                                小島与一作「初袷」福岡市博物館蔵
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現在は彼を師とする系列の人形師が、たくさん活躍して居られます。 その小島与一白水六三郎と言う名人の弟子だったのです。 さらに、その白水六三郎を育てたのが、文政年間(1818~1830年)に祇園町で博多人形のもとを作った人物と言われている中ノ子(なかのこ)吉兵衛です。 よって、江戸時代後期から明治時代にかけて、「博多人形」のブランドを広めた名人達の多くは、祇園町の中ノ子家と何らかの師弟関係、又は姻戚関係を持って、業界の発展に大きな役割を果たしたのでした。

 
 
その祇園町の中ノ子家の住居兼工房がかっての地所から発掘されました。 昨年(2017年)7月に新聞のニュースで公表されましたが・・・その後に開かれた博多ガイドの会の「まちあるき」コースに参加して、発掘現場を見学して来ました。
 
場所は祇園町の国体道路沿いです。  次の地図中、印の場所です。
 
                                     祇園町地図
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「博多祇園M-SQUAREビル」の隣(矢印)は空き地です。
 
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 白い壁で仕切られていて、ビルの工事中かな?と勘違いしてしまいます・・・が、壁に「埋蔵文化財発掘調査中」の看板が立て掛けてありました。 「博多213次遺跡発掘調査、予定期間は平成29年6月5日~30年6月14日」と書かれています。
 
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 外からは見えないのですが・・・中に入ると・・・凄~い、 何かワクワクする。
 
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 地表から1.2メートル下が江戸後期~明治初期の地層だそうです。 この地層から中ノ子家の窯跡が6基みつかりました。
 
                             窯跡  (昨年7月現地説明会) 
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長さが2.3mメ-トル、幅が1.3メートルの「空吹窯(そらふきがま)」と呼ばれる円筒形の薪窯らしいです。 埋蔵文化財課の資料(図)で説明を加えてみますと・・・、
 
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 円筒形の「空吹窯」の人形など製品を入れる上半部(焼成部)は残っていませんが、燃料(薪など)を燃やす下半部(燃焼部)と焚口が残っています。 燃焼部は畦(あぜ)と呼ばれる二つの土手で三つに分けられ、また、床面は奥の方に傾斜しています。 炎は畦(土手)によって三方に広がり、更に、床面の傾斜によって効率よく炎を送る構造になっているそうです。
 
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 窯跡の周辺から数多くの人形の破片や形が出土しています。 素焼きの土人形は薄くて厚さにムラが無い事から、当時の人形師は既に高い技術を身に付けていたとされています。
 
発掘調査状況の説明を聞いた後は体験学習です。
 出土した遺物(人形や焼き物破片など)は、土が付いたまま無造作に箱の中に入れられています。
 
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 焼き物破片に付いた泥や土をブラシで洗い落とします。 初めての体験でした。 この破片は何なんだろう? と思いながら洗っている時は、ちょっぴり考古学者になった気分でした。
 
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 うっちゃんが洗った焼き物破片の中に奇妙なものがありました。 左の黒い破片です。 人形の破片でないことは確かです。 
 
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 発掘現場で調査研究に携わっている学芸員のお話しでは、これは「七輪」の破片とのこと。 発掘された「空吹窯(そらふきがま)」は調査の結果・・・その時その時の需要に応じて、人形のみならず様々な製品を焼く多機能な窯だったようです。 博多人形が高い評価を受け、商品として流通するようになったのは、明治後期からですから・・・それまでの中ノ子家では、「七輪」などの生活用品が商売としての主流を示していたのかもしれません。
 
その後、博多人形の起源について学習していたのですが・・・ひとつまとめてみました。
 
1600年、黒田長政は筑前入国に伴い、福岡城の築城に執りかかります。 その時、多くの瓦焼き職人が集められたのですが・・・福岡城の完成後も一部は瓦や焼き物製品の職人として、博多の町に住み着きました。 この時、職人仲間で素焼き人形を焼いて長政公に献上した話がありますが、定かではありません。 
 
中ノ子家も山口出身の瓦焼き職人との説がありますが・・・福岡城竣工後は祇園町に住居兼工房を構えて、瓦や七輪など様々な生活用品を焼いていたのでしょう。 より良い製品を作るために、窯の構造や焼き方などの技術技法の研究も、何代にもわたって重ねていたのだと思います。 江戸時代後期の1800年代初め、中ノ子(なかのこ)吉兵衛はそれらの技術技法を生かし、祇園町で庶民的な素焼き土人形制作を創案したのです。 それが今日の「博多人形」の起源だと思います。
 
                       「鶴亀」 中ノ子富貴子(2012年2月没)作品
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現在は 中ノ子基高 氏の代だと聞いております。
 
調査を終えたかっての中ノ子家工房跡(博多213次遺跡)は、更に下層を掘り進め、中世・古代の発掘に向かうとのことです。
 
 香椎うっちゃんの関連ブログ ➡ 「人形師 中村信喬 ①」 
 
*発掘調査現場見学会以外の画像は、福岡市博物館、西日本新聞、博多人形商工業共同組合からお借りしました。
*ブログ内容は博多ガイドの会、現地見学会、現地説明板、福岡市埋蔵文化財課、博多人形師系譜、博多人形商工業共同組合、西日本新聞、博多人形沿革史、ウィキペディアを参考にしました。
 
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