イムジン河
昭和42年(1967年)、京都では大学生によって結成されたフォークグループ「ザ・フォーク・クルセダーズ」の人気が高まっていました。 アマチュアながら、コンサートは満席になる程です。 それでも、「大学を卒業すれば其々の道を進むんだ」と決めていた彼らは、グループの解散記念に300枚のアルバムレコードを自費製作しました。
暫くすると、ラジオ局にその中の一曲「帰って来たヨッパライ」のリクエストが殺到します。 彼らは1年間限りの約束で、プロの世界に入ります。 昭和42年(1967年)10月のことでした。アマチュア時代はメンバーが度々交代しましたが、プロデビューは(写真右から)加藤 和彦、北山 修、はしだ のりひこ の3人でスタートしています。
ザ・フォーク・クルセダーズ
![イメージ 1](https://stat.ameba.jp/user_images/20190819/15/kashii-ucchan/e8/09/j/o0450030014543118006.jpg?caw=800)
デビュー曲「帰って来たヨッパライ」は大ヒットし、日本中から注目される存在になります。 年が明けて昭和43年(1968年)、2曲目の予定は、同じく自費制作アルバムに入っていた「イムジン河」に決まりました。
「イムジン河」は朝鮮半島の民族が南北に分断された悲しい想いの歌・・・国土が分断された経験が無い日本人にとっては、強烈な刺激を持ったメッセージでもありました。 コンサートで初めて唄い終わった時、会場はしばらく静まり返ったままでしたが、その後に割れんばかりの拍手が起こったそうです。 2月頃にはラジオで流れ始めていて、レコードの発売前から好評でした。
うっちゃんも美しい曲に感動し、ギターで唄えるように練習したり、レコードを買う為にお小遣いを準備していました。 が・・・突然2日前になって、東芝レコードは政治的配慮を理由に発売を中止したのです。 当時は、何が起こったのか・・・さっぱり分かりませんでした。
歌詞を意識しながら、you-tubeで聴いてみましょう。
イムジン河 唄:ザ・フォーク・クルセダーズ
C Am F C
1.イムジン河 水きよく とうとうと流る
Am C Em Dm C
水鳥 自由に むらがり 飛びかうよ
Am C Am G7
我が祖国 南の地 おもいは はるか
Am F G7 C
イムジン河 水きよく とうとうと流る
2.北の大地から 南の空へ
飛びゆく鳥よ 自由の使者よ
誰が祖国を二つに わけてしまったの
誰が祖国を わけてしまったの
3.イムジン河 空遠く 虹よ かかっておくれ
河よ おもいを 伝えて おくれ
ふるさとを いつまでも 忘れはしない
イムジン河 水きよく とうとうと流る
朝鮮戦争によって、イムジン河を境に南北に分断され、南(大韓民国)の故郷に帰れなくなった北(朝鮮民主主義人民共和国)に住む人の歌です。 ザ・フォーク・クルセダーズの唄う歌詞そのものには、何の問題もありません。
でも、事情が分かってくると・・・やはり問題だったのですかね。 北朝鮮と韓国と日本の三国が絡んでいます。 つまり、この曲は何処の国の誰の作品か?、になるのです。 少し話が戻りますが・・・加藤 和彦の友人に松山 猛(後に加藤が結成するバンドの活動に加わる)がいました。 松山 猛が中学生のころ、親しくしていた在日朝鮮中級学校の友達が唄っていたある歌を、日本語訳で聞き覚えていて・・・メロディは加藤 和彦が譜面に書き下ろし、歌詞は1番のみしか覚えていなかったので、松山 猛が「南北がいつの日か一つになるように」の願いを込めて、2・3番を書き加えました。 完成したのが「イムジン河」です。
さて、事の発端は、朝鮮総連から発売元の東芝レコードに対しての抗議からでした。
メンバーと松山 猛にとって、この曲は、誰が最初に唄ったのか分からない民謡伝承曲という認識だったのでしょう。 ところが正式な作詞・作曲者が現れたのです。
朝鮮総連からは、レコード販売に当たっての要求がありました。
1、楽曲名を朝鮮民主主義人民共和国の「臨津江(リムジンガン)」に変更すること。
2、原曲の作詞者:朴 世永、作曲者:高 宗漢 の名を明記すること。
3、歌詞について、2・3番は原曲(原曲は2番のみ)を忠実に和訳すること。
大きな問題は歌詞でした。 作詞者・朴 世永は、分断時に「北」に残された「南」の人間です。1番では「南」の故郷を想う気持ちを詩っています。 松山 猛が聞き覚えていた通り、原曲でもその和訳と、ほぼ同じ内容だったようです。 ところが原曲の2番は、こんな意味の歌詞になっていたのです。
今、「南」では荒れ果てて食べ物が無く、人々は草を食べている、と聞いている。 「北」は豊作で穀物があふれている。 「北」は豊かな国だ。 臨津江(リムジンガン)の流れよ! その事を「南」に伝えておくれ。
この歌詞を日本の歌手が唄う訳にはいかないでしょう。 これは、北側(朝鮮民主主義人民共和国)のプロパガンダ・ソングと言われても仕方ありません。
イムジン河を挟む南北の地図
![イメージ 2](https://stat.ameba.jp/user_images/20190819/15/kashii-ucchan/cb/c5/j/o0760051414543118017.jpg?caw=800)
大韓民国「南」も、原曲の歌詞を、ハイOKとは言わないでしょう。 「北」の歌が、日本で流行るのを好まないからです。
松山 猛が正確な2番の和訳を聞き覚えていたら、「イムジン河」は生まれていないのではないでしょうか。 東芝レコードが販売中止を決めたのは、致し方なかったと思います。
そして、ザ・フォーク・クルセダーズの名曲「イムジン河」は放送禁止の扱いとなり、既に出荷されていたレコードは回収され、廃棄処分されました。 以後は三十数年間に渡って、NHKを初めメディアから封印されてきたのです。
朝鮮半島の平和を、切に、そして純粋に願った曲なのに・・・。
2002年になって、、ザ・フォーク・クルセダーズのオリジナル音源のCDが発売されました。 しかし、加藤 和彦は2009年10月17日、軽井沢で首吊り自殺によってこの世を去りました。 ウツ病だったようです。
「帰って来たヨッパライ」のようなコミカルな曲を作っているので、明るくサッパリした性格だったと思うのですが・・・。 「イムジン河」の放送禁止には、どの様な心境だったのでしょう。 やはり、悔しかったのだと思いますよ。 その後に発表した「悲しくてやりきれない」は、「イムジン河」のメロディを逆に辿って、コードを反対からつないで書き上げた曲とのことです。 シャレを含んだ、彼なりの反抗の表現なんでしょう。
「悲しくてやりきれない」歌詞が1番のみのyou-tubeがありました。聴いてみましょう。
悲しくてやりきれない poko959さん提供
いいですね! ザ・フォーク・クルセダーズは素晴らしいフォークバンドでした。
1968年(昭和43年)10月17日、「さよならコンサート」を終え、彼らは約束通りに1年で解散したのです。
加藤 和彦 は解散後、龍谷大学を中退し、ソロやロックバンドを結成する。 自らの命を絶つまでは、創作活動を通じて日本の音楽界の第一線で活躍した。
北山 修 は京都府立医科大を卒業後、医学界で活躍。九州大学教授を退職後も精神分析学においては、日本の第一人者。 医者の傍ら、作詞家として音楽活動にも参画。 「戦争を知らない子供達」、「あの素晴らしい愛をもう一度」、「風」、「花嫁」、「白い色は恋人の色」、「さらば恋人」などのヒット曲を手掛けている。
はしだ のりひこ は同志社大学を退学後、「シューベルツ」や「クライマックス」などのフォークバンドのリーダーを務めた。ヒット曲「風」や「花嫁」の歌詞は、北山 修 が提供している。
ベッツイ&クリスの「白い色は恋人の色」は加藤 和彦 作曲、北山 修 作詞による昭和の名曲です。 レコードを持ってます。
■ 後日追加=令和3年 香椎花園閉園の時に、僕がYou-Tube編集しました。
ブログを書き上げたので、ギターを弾きながら「イムジン河」を唄ってみました。
うっちゃん「イムジン河」を唄う 三脚を使った自撮り
![イメージ 3](https://stat.ameba.jp/user_images/20190819/15/kashii-ucchan/0e/4a/j/o1277095814543118035.jpg?caw=800)
うっちゃん流にCコード展開(歌詞の上に赤文字で記しています)に調整しています。 簡単なコードで、こんなに美しい曲が唄えます。
歌詞の3番まで唄い終わって・・・何か切ない・・・「イムジン河」がラジオから流れて40年近く経つのに、南北は今でも変わらない・・・国を分断したのは南北の一般国民ではないのに・・・北の大陸間弾道ミサイルの実験は続くし・・・アメリカは空母と爆撃機で威嚇するし・・・最悪の事態にならなければいいが・・・。 でも、福岡にミサイル打ち込んだら、うっちゃん怒るよ・・・そして戦う! 家族と故郷と日本を守るために!。
* 参考文献:ホームページ「TAP the POP」
* ザ・フォーク・クルセダーズの画像は「TAP the POP」からお借りしました。
うっちゃんの思い出の一曲