チブサン装飾古墳
 
古墳内に描かれた二つの丸い文様が、乳房に見えることから「チブサン」と言う名がつきました。 熊本県山鹿市の菊池川流域にあります。
 
             チブサン装飾古墳 内部 (熊本県立装飾古墳館にて)
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1月18日(水)、東区の歴史研究会からお誘いを受け、「熊本装飾古墳巡り」バスツアーに参加してきました。古墳内部の壁面、石室、石棺などに浮き彫りや彩色で彩られた古墳を装飾古墳と呼びます。 3世紀中頃~7世紀前半までが古墳時代で、全国には約20万個の古墳が造られたそうです。しかし、その中で文様や絵で飾られた装飾古墳は660基にすぎません。このうち九州が385基を占めます。熊本県が全国1位の195基、福岡県が2位の71基です。熊本県では195基中117基が菊池川流域に集中しています。
 
                      チブサン古墳 南側入り口前
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チブサン古墳は6世紀半ば頃に造られた前方後円墳です。東西方向に全長55m、後円部径23m、高さ7m、内部は南に開口する横穴式石室となっています。学芸員の方に鍵を開けていただき、南側の入り口から石室にはいります。
 
                 石室内の図 (山鹿市博物館パンフより)
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石室の壁は凝灰岩(阿蘇の火山灰が固まった岩石)が積み上げられています。 石室には一度に数名づつしか入れません。天井が低い通路を進んで観察窓から中を覗きます。 ガラス越しなので写真が上手く写っていませんでした。古墳入り口にレプリカが設置されています。その写真です。
 
                      石室内部のレプリカ
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石室は江戸時代に開口されたようで、葬られていた人や副葬品などは残ってなかったそうです。石室内に石屋形(いしやかた)と言われる屍床が設けられています。右側が東になりますので、頭部が向いていたそうです。 正面奥・左・右の三つの側を石棺状に仕切って、その上に屋根石が置かれています。その三つの側面に紋様が描かれているのです。 正面奥の側石には三角文・菱形文を主体に二つの円文が描かれています。江戸時代に開口された石室に入った村人たちは、この二つの円文を女性の乳房と捉えて、「乳の神」として信仰して来たのだそうです。 乳房さん ⇒ ちぶささん ⇒ ちぶさん ⇒ チブサン古墳。 チブサン古墳の近くにある有名な古墳も村人から「出産の神」として信仰され・・・産さん ⇒ うぶさん ⇒ ウブサン古墳と呼ばれるようになったのです。
 
うっちゃんが気になったことがあります。良く見ると、正面奥の壁は4枚の石板で成っています。両側が小さな長方形の石板、中2枚が大きな石板。乳房は中2枚の右側に描かれています。中2枚の左側は欠けているのです。おそらく持ち去られたのでしょう。江戸時代に開口された、と言うことは盗掘されたのでしょうが・・・気になるんです・・・もっと素敵な文様(絵)、或いは古代の人々からの大変貴重なメッセージが描かれていたのではないのかと・・・。 こうゆうのが古代の浪漫で、引き込まれちゃうのですよネ。
 
チブサン古墳を有名にした、もう一つの装飾絵が右側の側面です。両手両足を広げた人物像、対角線で塗り分けられた四角形、その上に七つの円文が描かれています。 うっちゃんが中学生の頃、この絵が、古代に宇宙人が飛来して来た証だとして騒がれたらしいのです。 確かに1960年代~1970年代はUFOブームが起きていましたね。 エジプトのピラミッドは宇宙人の建造技術によって造られた・・・とか、ペルー・ナスカの巨大地上絵は宇宙船の目印として描かれたとか・・・。当時のUFOブームの中で、チブサン古墳石屋形右側の装飾絵がどのような解釈で見られたか?
 
                        右側面の装飾図
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右下の対角線で色分けされた四角形は宇宙人の基地で、左横に建つ直線は通信塔。 上の七つの円文は基地から飛び立った円盤型宇宙船。左側に両手を振って宇宙船を見送る宇宙人が描かれている、と言う解釈です。「未知との遭遇」とかが上映されていた時代ですから、そう思うのも分かる気がします。
 
現在は他の古墳壁画との比較や研究が進んで・・・この人物像は埋葬者の霊に祈りを捧げる巫女、または、埋葬者の頭部辺りに描かれているので、モガリ中の死者の再生を祈る祈祷者か、再生までを守る警護者だとされています。 その場合の上の七つの円文は北斗七星になります。仏教が伝わってきた直後ですから、妙見信仰によって北極星が天の神となり、その周りを回る北斗七星も崇拝の対象になっていたでしょう。
 
石屋形レプリカの隣にチブサン古墳出土遺物の説明用コーナーがあります。
 
                  古墳遺物の説明用コーナー (レプリカ展示)
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古墳周溝から円筒埴輪、形象埴輪が出土しています。 そして前方部と後円部のくびれ部分にヤッコ凧形の石人が立っていたのです。 この石人は貴重なものとして、本物は東京国立博物館所蔵となっています。
  
大変すばらしい古墳を見学させていただきました。
 
チブサン古墳からバスで岩野川(菊池川支流)沿いに5分ほど走ると、鍋田横穴群(なべたよこあなぐん)に着きます。
 
                       鍋田横穴群 27号墓前
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岩野川に面して凝灰岩の岩壁が続いています。その露出した岩壁に横方向に穴を掘って、豪族のお墓としたものです。 現在、61基の横穴墓が数えられていますが、うち16基に浮き彫りの装飾が確認できています。 その中で最も規模が大きい横穴が27号墓です。お墓の入り口左側の側壁(矢印)に大の字形の人物、弓、弓を納める幾つかの靫(ゆぎ)、矢をつがえた弓、盾などが彫られています。
 
                      27号墓の浮き彫り装飾
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描かれている殆どが武具類なので、入り口の人物はお墓の中に悪霊が入らないように守っている番人なのでしょう。 チブサン古墳に描かれている人物と同じ役割なのですね。
 
このあと、鞠智城(きくちじょう)・菊池神社を訪れたのですが学ぶ時代が違いますので、機会があれば改めての報告にします。
 
今回、感じたことは・・・奈良明日香村の高松塚古墳やキトラ古墳の壁画とはまったく系統が異なるもので、謎があって、何かを訴えかけているようでもあり、吸い込まれていくような魅力を持ってますよね。 
 
前方後円墳など古墳そのものは全国に広まったのに、装飾が施された古墳だけは何故、熊本県と福岡県に集中しているのか?  次の写真は2年前、嘉穂郡桂川町の王塚装飾古墳館で撮ったものです。大きさや色合いなどが再現された石室に入った時には、オーッと声をあげて驚いたものです。
 
                     王塚装飾古墳 前室の後壁
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大陸からの文化流入の経路からだとすると、奴国、つまり福岡市内に多くの装飾古墳があるべきなのに・・・福岡市域には2基しかありません。 嘉穂郡、宮若市の遠賀川流域に集中しています。熊本に於ける菊池川流域と同じです。 
 
これらの共通する点として、「砂鉄の産地」だとする研究家がいました。 6世紀の初め、朝鮮半島の情勢が悪くなり、鉄の自給自足が始まった時期と産地が装飾古墳群地域と合致する、としています。 うっちゃんも「鉄」ということでは気になる点があります。装飾用の顔料です。 赤色はベンガラと呼ばれている酸化第2鉄、黒色は二酸化マンガンを含んだ鉄の粉が原料となるからです。
 
 
海鳥社発行の「福岡検定」の教書「福岡博覧」では、装飾古墳の出現が「筑紫君磐井の乱(つくしのきみいわいのらん)」を転機としている、と書かれています。 「磐井の乱」と言うより、九州の大王との説もある筑紫君磐井の存在は、考古学的にみても地域の古墳や集落のあり方に大きな変化を生じさせたと言えます。博多区の東光寺剣塚古墳では阿蘇石で造られた石屋形が持ち込まれています。
筑紫君磐井の本拠地である八女の古墳群にも装飾古墳がありますし、チブサン古墳で見た石人が磐井の墓と言われる「岩戸山古墳」から100点以上出土しているのです。八女から県境を越えた隣がチブサン古墳の山鹿市です。菊池川流域の古墳は磐井に従う位の高い豪族集団の墓とも言えます。 当時は熊本県北部から遠賀川上流域辺りまで、筑紫君磐井が支配していたと考えられますから、王塚装飾古墳との繋がりもありますね。
 
装飾古墳は浪漫が広がりそうで、色々と楽しめそうです。
 
参考文献:熊本県立装飾古墳館 ガイドブック 及び 館内説明
 
 
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