御島神社祭(みしまじんじゃさい・香椎宮末社)
 
915日(木)は「中秋の名月」、潮回りは大潮。 この日、香椎潟(イオン横)の御島神社祠前にて御島神社祭が執り行われました。 小さな島(岩)の上でのお祭りです。御島神社祭は旧暦による中秋の名月」の日に執り行われますので、日時は毎年変わります。
 
                                      ●御島神社祭
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干潮時刻は1446分。潮位は43cm。 満潮時刻は午前822分で潮位は202cmでした。
満潮時と干潮時の写真を見比べて下さい。
 
                                         満潮時
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干潮時、香椎浜北公園から御島神社鳥居を望む
 
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普段は海の中の御島神社に歩いて渡ることは出来ません。 お祭り日は香椎浜北公園(イオン横)近くの石段から潮が引いた砂地に下りて渡ることが出来ます・・・ですが・・・砂地がぬかるんでいて長靴が必要です。 それでも場所によっては20cm近く埋まり、足を取られます。
香椎潟は周りが埋め立てられ、現在は大きな池のようになってしまいましたが、岸辺は橋でつなげられ、一周2.9kmの遊歩道(赤点線)が整備されました。
 
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 地図中、事件現場とあるのは、松本清張の推理小説「点と線」の事件現場、海参道は干潮時に現れる御島神社の参道?。また、9月の第2土曜日は香椎浜花火大会が海上で開かれます。
 
ぬかるんだ砂の中をゆっくりと一歩一歩、やっと鳥居に着きました。 鳥居の先の橋は「あいたか橋」。お祭りが執り行われる祠までは、もう少し距離があります。
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鳥居の中にアイランド・シティの高層マンションが見えます。左が「アイランドタワー・スカイクラブ」地上42階・145m、右が新しい「Iタワー(アイ・タワー)」地上45階・150m。
 
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鳥居の扁額は「御島神社」、右横の石柱(祠?)には「濱男中」と刻まれています。「濱男中」とは、後に触れる「濱男(はまお)神社」に祀られている海の神様です。
 
鳥居から祠(本殿?)まで再びぬかるんだ砂の中を歩き、辿り着きます。
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祠の真近に立つのは初めてです。何回も補修され、決して荘厳さはありませんが・・・ただ、祀られている「綿津見大神(わだつみのおおかみ)」の強い気を感じます。 神功皇后綿津見大神、そして、皇后が御島で髪を洗った神事については、先の「海参道(御島神社)」に記しています。 祠の前に果物・野菜・魚が供えられていました。
 
今回はご祈祷を受けられる方が3名おられました。 宮司と神職そして祈祷を受けられる3名も長靴を履いてここまで来ます。 
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祠の前の岩上が拝殿になるのでしょう。まずは、3名にご昇殿です。場所が場所だけに、ご利益も大きいと思います。 古神道時代は自然崇拝で、山や岩・大木が信仰の対象物となっていました。 海人(あま)阿曇族も香椎潟に浮かぶこの岩を神体とし、仰ぐようになったのでしょう。
 
お清めのお祓いです。 
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祝謡を奏上。
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玉串拝礼。日々の感謝を綿津見大神に報告・御礼すると共に、願い事をお祈りします。
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雨が心配だったのですが、御島神社祭は無事に終了しました。
 
                              御島神社古図 (香椎宮所蔵)
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                           ●御島崎方向に伸びる「海参道」
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実は、この日大潮ではあったのですが、満月は2日後の917日(土)でした。 17日の干潮時は1558分、潮位は36cmです。15日より7cm海面が低くなります。 恐らく17日は、もう少しクッキリと参道が海面上に現れていたのではないかと思います。
 
 
鹿児島本線踏み切り近くの浜男通り(旧唐津街道)脇に「濱男神社」(香椎宮末社)が鎮座しています。1810年頃、奥村玉蘭が描いた「筑前名所図絵」の中に「濱男神社」を見つけました。神社の前が「旧唐津街道」で、後ろが香椎潟です。
            
                        ●「筑前名所図絵」 ”香椎参道・香椎村”
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                 ●濱男神社
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昭和初期からの埋め立て以前は、「濱男神社」の裏が香椎潟の波打ち際でした。昔、香椎宮の神職は毎朝この場所から小船に乗って、「御島神社」へお祈りに行っていました。雨・風が強くて船が出せない時のみ、「濱男神社」からお祈りしていたのです。 遥拝所の役割もあったのでしょうか。 御島神社鳥居横の石柱(祠?)に「濱男中」と刻まれていたこととつながります。狭い境内にエノキの大木が社を覆っているのですが、「筑前名所図絵」でも、そのエノキが描かれています。 御島神社からの帰り、薄い霧で視界が悪くなった時には、このエノキが目印になったそうです。
 
 
話は少し逸れますが、先に示した「香椎潟一周絵地図」の印の場所(香椎川に架かる片男佐橋近く)に鳥居が立っています。
 
         ● 片男佐橋(かたおさばし)近くの鳥居と扁額 
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歴史好きブロガーの最近の投稿に、この鳥居が香椎宮の「一の鳥居」とする内容が幾つか見られます。しかも、ブログの中に「この鳥居は埋め立て以前は海の中に立っていた」と書かれています。 うっちゃんもこのことについて調べたのですが、埋め立て以前の海の中に立っている鳥居の記録は見当たりません。 扁額は「香椎宮」となっており、海側に向いて架かっていますので、これは「一の鳥居」とも言えます。 しかし、鹿児島本線踏み切り近くの鳥居とこの鳥居の間には、団地やビルが遮り、参道はないのです。
 
いま少し、調べたのですが、やっと分かりました。しかもそれが、エ~ッと驚く事実につながったのです。
 
平成24年に編集された「香椎東校区35周年記念誌」によると、「この鳥居は、昭和の初めまで楼門前にあった鳥居で、一時期、香椎川沿いの道路に移され、後に整備して埋め立て後の片男佐海岸近くに建てられた」となっています。現在の楼門前の鳥居は昭和13年(1938)に建立されています。 時期が一致します。
 
また、片男佐の鳥居が楼門前から移される前の写真が絵葉書の中に残っています。見た目の大きさ・形からしても、同じ鳥居に間違いありません。
 
                          ● 楼門前にあった頃(昭和初期)の片男佐の鳥居
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 *絵葉書の下文字は右から(筑前名所) 官幣大社香椎宮 楼門 と書かれてます。
 
では、なぜ最終的に片男佐海岸のあの場所に移動させたのか?、ですが・・・???。
うっちゃんは御島神社の祠は神功皇后をお助けした阿曇族が建立したのだと思っています。 その神功皇后が祭られた「香椎宮」の楼門(境内が広いので結界(けっかい)の役を持つ楼門を起点とした)と御島神社の祠の間を地図上で線を引いたのです(下)。 水色の道路は3号線からの参道。
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なんと驚いたことに、その線上に一寸の狂いも無く、「濱男神社と片男佐の鳥居が位置していたのです。 香椎宮にとって、御島神社は以前は毎日お祈りするほど大切な存在であり、それを遥拝する濱男神社の位置も、現在の場所が重要で特別な意味があるのでしょう。 
 
埋め立て後に楼門前から移動させた片男佐の鳥居が線上にあるのは偶然ではないでしょう。 片男佐の鳥居は「一の鳥居」と言うより、御島神社綿津見大神を香椎宮の神功皇后に導く指標となる印しなのではないでしょうか。「鳥居」(とりい)とは「人が通り入る」=「通り入る」=「とりいる」=「とりい」と言う説もあります。参詣者が通り入ることを「鳥居」の主と考えれば、香椎宮の「一の鳥居」は鹿児島本線踏切の鳥居だと思います。
 
 
楼門前の鳥居(絵葉書)の画像は「香椎東校区35周年記念誌」よりお借りしました。
 
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