嗚呼壮烈岩屋城
 
 
二日市の街から北東を望むと、右手に宝満山868m)、左手に四王子山が見えます。
天正14年(1586年)の戦国時代、この二つの山に豊後大友家直属の城がありました。
宝満城と、支城の岩屋城です。この二つの城を居城としていたのは、豊後大友家の名将・高橋紹運(たかはし じょううん)。
 
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前年までの九州は薩摩の島津義久、豊後の大友宗麟、肥前の龍造寺隆信による、三つどもえの勢力争いが繰り返されていました。
しかし、龍造寺が島津に敗れると均衡が崩れ、島津の勢いに大友も次第に力を弱めていきます。島津は肥後から筑後を押さえ、3万を超える軍勢で筑前まで迫って来ました。
この時、筑前の大友領を守るのは宝満城の高橋紹運と立花城の立花宗茂
 
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立花宗茂は高橋紹運の長子であるが、大友家の猛将・立花道雪(立花城城主)に男子がいなかったので養子となっていたのです。その養父の立花道雪は、前年の筑後高良山へ出陣中に病没しています。立花宗茂は20歳で城主となり、立花城を守っていました。
 
大友宗麟は大阪の豊臣秀吉に九州の現状を訴え、援軍を依頼します。
そして、宝満城の高橋紹運と立花城の立花宗茂の親子に「援軍到着まで筑前を死守せよ」と命を出しました。
 
高橋紹運は考えました。秀吉の援軍到着はどんなに急いでも30日はかかる。宝満城と立花城は山頂に築かれた頑強な城であり、数万の島津軍と言えども落すのにそれぞれ15日はかかるであろう。自分が支城の岩屋城に篭れば、必ず先に攻撃してくる筈だ。岩屋城で15日間もち堪えれば、何とか宝満城と立花城の二つの城が助かるかもしれない。
 
 
高橋紹運には次男の直次(15歳・宗茂の弟)がいました。岩屋城をおとりにして、自らの命と引き換えに二人の息子を救おうと考えたのです。
そのことによって立花家と高橋家が存続し、大友家にも忠義が果たせる。死んだ立花道雪様へも顔向けできる。
 
 
高橋紹運は主な家臣に決意を話し、岩屋城に残る意思のある者を尋ねました。紹運に心酔し、死を覚悟した高橋家の旗本や家臣、そして立花城から応援に来ていた立花家の家臣らが、我も我もと名乗りをあげます。高橋紹運は涙を流しながら763名を選び、15日分の食料と武器・弾薬を岩屋城へ運ばせました。
岩屋城は665年に、唐・新羅連合軍の攻撃に備えて築城された”大野城”の土塁などを利用して、山の中腹に築かれています。
高橋紹運は二の丸・三の丸を囲むそれらの土塁を更に高く積み上げ、逆茂木や杭などで守りを固めたのです。
そして、家老に次男の直次を託し、千数百名の兵士と共に宝満城で籠城させます。
 
 
天正14年(1586年)712日、3万を超える島津軍が岩屋城に迫ってきました。
島津軍の総大将は島津忠長(薩摩領主・義久の従兄弟)。島津忠長は名武将の高橋紹運と戦えば損害が大きくなることは分っています。数日の間、何人もの使者を出して降伏を勧めますが、高橋紹運の決意は変わりません。
 
716日の早朝、島津軍の総攻撃が始まりました。
島津軍は気勢を上げながら、幾つもの谷から城の登り口に攻め上がって来ました。
岩屋城の兵士は逆茂木で囲った土塁の上から、大木や石を落として島津軍を防ぎます。
土塁が破られそうになると、一斉に鉄砲の銃弾を浴びせました。
それでも島津軍は味方の屍体をのり越えて押し寄せてきます。しかし、全員死を覚悟した岩屋城兵士の凄まじい気迫に島津軍は死傷者を増やすばかりでした。
この日の島津軍の攻撃は夜10時まで続き、次の日も朝から夜の12時までと凄まじい猛攻撃でした。
 
高橋紹運の的確な指揮とそれに従う岩屋城兵士の働きに、島津軍は連日苦しめられました。
それでも岩屋城内では討ち死にする兵士が増えていきます。
開戦から10日を過ぎた726日朝、背後の間道から外郭の砦が破られ、城内に島津軍が流れ込んできました。高橋紹運は兵士を二の丸まで退却させ最後の守りを固めます。
 
727日、夜が明けると同時に島津軍の攻撃が始まりました。弓の矢も鉄砲の銃弾も尽き、二の丸を守っていた岩屋城兵士は押し寄せる島津軍に白兵戦で向かい、壮絶な戦死を遂げたのです。
午後、本丸にも島津兵が押し寄せてきました。
 
本丸は高橋家の旗本と立花家の武将を含めて100人が最後の死力を尽くして戦います。
高橋紹運自身も柵を越えてきた島津兵と交戦し、17人を切り倒したが肩と背中に傷を負った。
旗本の武将一人に「もはや これまで」と告げると、本丸の最上階に登っていきました。
最後に残った武将40人は、傷を負いながらも、高橋紹運が登った最上階への階段下を何重もの円陣を組んで必死に守ります。
 
最上階に登った高橋紹運は宝満城と立花城の方角を眺め、「宗茂・・・直次・・・」とつぶやくと、「エーイッ」気合とともに割腹して果てました。
階段下を守っていた高橋家・立花家の旗本の武将達は、紹運の最後を確認すると、「これで良し」、お互いにうなずき合うと、掛け声と共に大軍の中に切り込んでいったのです。
 
763人全員が玉砕。戦国史に残る激戦でした。
その後、島津軍は立花城を攻めますが、秀吉の援軍の報を聞いて薩摩へ撤退します。
 
 
 
 
名将・高橋紹運を偲び、岩屋城跡に行って来ました。
史跡・岩屋城跡には駐車場がありませんので、四王子山山頂の焼米ヶ原に車を停めて車道を歩きます。大宰府方面へ15分程下ると「岩屋城跡」の看板があります。
 
下写真は大宰府方面から上りの道路を撮ったものです。
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右側の看板(青矢印)から石段を上ると数分で本丸跡に着きます。
 
そんなに広くはありません。ここが高橋紹運の最後の場所か、と思うと胸がつまります。
本丸跡から北東の方角に「宝満山」が望めます。
 
                       ●本丸跡から「宝満山」方面
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高橋紹運はここから次男・直次の無事を祈っていたのでしょうか。
 
嗚呼壮烈岩屋城址」と彫られた石碑が建っています。
 
                      ●「嗚呼壮烈岩屋城址」の石碑
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じっと見つめていると、763名の壮絶な戦いの光景が浮かんできます。
白兵戦で島津軍に切り込んで行く武将達の掛け声も聞こえてきそうです。
 
玉砕した763名に”南無三”。 763=ナ・ム・サン。
 
 
 
再び車道に戻り、道路写真の赤矢印から自然観察道を下ると「二の丸跡」に出ます。
ここに石塀で囲まれた高橋紹運の墓所があります。
 
                          ●高橋紹運の墓所
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中央の墓前で静かに手を合わせてきました。
 
「あれから、長男の宗茂様も次男の直次様も大活躍されましたよ。ご末裔も柳川で繁栄されました。 どうか安らかにお眠りください」
 
 
 
 
 
■ 岩屋城陥落後の島津軍の動きと宝満城・立花城の運命、又は立花宗茂・高橋直次に
ついては、「立花宗茂と香椎宮」を覗いて下さい。
 
■ 紹運・宗茂・直次は何度も名前を変えています。本ブログでは便宜的に晩年の名乗りで統一しています。
 
 
 
●参考文献
「九州戦国合戦記」 吉永正春
「立花宗茂」 河村哲夫
 
 
 
うっちゃんの歴史散歩