博多湾は古代国際港
 
 
博多湾の今と昔」(博多湾を想う)の続きです。
 
 
”きんいん1号”が西戸崎を出て、志賀島までは約15分。
能古島や糸島連山を眺めながら、博多湾が歩んだ主な出来事を考えていました。
 
 
■ 57年     後漢の光武帝が奴国に金印を授与した。
■ 200年代中期  魏の使者が邪馬台国に来訪(魏志倭人伝)
■ 300年代後期  神功皇后が朝鮮半島出征
■ 400年代    倭の五王(讃・珍・済・興・武)の大陸外交
■ 536年     磐井の乱後、「遠の朝廷(とおのみかど・大宰府の前身)」の設置
■ 600年代前期  遣隋使の派遣
■ 600年代中期  遣唐使の派遣が始まる
■ 663年     「白村江の戦い」に敗れた後、防人が置かれ、大野城が築かれる
■ 901年     菅原道真が大宰府長官に遷任
■ 1000年代   1200年代まで日宋貿易で船の往来が盛んになる
■ 1158年    平清盛が日本で初めての人工港「袖の湊(そでのみなと)」を築く
■ 1195年    栄西が帰国し、聖福寺を開山する
■ 1274年    元寇(文永の役)来襲、元・高句麗軍が百道・博多・箱崎に上陸
 
 
鎌倉時代までは、こんなもんですかね・・・・”こんなもん”と言いましたが、日本全国でこれだけの歴史を持った湾(港)は他にありません。
 
おそらく、紀元前から大陸・半島との交流国際港として、様々な出来事を繰り返しながら発展してきたのでしょう。
 
 
船からの景色を眺めながら、古代浪漫に想いを馳せていると、志賀島に到着しました。
博多埠頭を出発して、僅か30分です。
 
                                          ●志賀島到着
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志賀島を一周する道路は”金印海道”と呼ばれています。
その”金印海道”を時計回りに歩き始めます。
 
                                        ●志賀島ウォーキングコース
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今日は、地図に示したとおりに勝間から山路を”潮見公園”まで上ろうと思います。
 
・・・と直ぐに、道路右側に”志賀海神社”一の鳥居が現れます。
 
                                        ●”志賀海神社”一の鳥居
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鳥居から20分ほどで、”金印公園”に到着します。
 
                              ●金印塚
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”志賀海神社”と”金印”については、宜しければ、過去のブログを覗いて下さい。
 
 
■ 金印の謎-1」
■ 「金印の謎-2」(志賀海神社)
■ 「アカデミックカフ   金印」
 
 
”金印塚”からしばらく歩くと”蒙古塚”に着きます。
 
                              ●蒙古塚
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文永の役(1274)と弘安の役(1281)で戦死した蒙古兵士を供養するために建てられた石碑です。
 
弘(ひろ)漁港の”ショップ ヒロ”に到着です。
 
                           ●”ショップ ヒロ”
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テレビで何度も紹介されましたら有名です。
ここで”スポーツドリンク”を買い、テーブルに座って一時休憩です。
 
 
志賀島には「志賀」(渡船乗り場)、「勝馬」、そして、「」の三つの集落があります。
 
                            ●博多湾地図
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志賀島の阿曇族の拠点は最初は印の「勝間」、そこから現在の志賀海神社の遷座と共に印の「志賀」へ、大和朝廷に仕えて大活躍するする頃には、印の「新宮」へ移ったと考えられます。
 
「倭の五王(讃・珍・済・興・武)」時代には玄界灘を高度な航海技術で行き来すると同時に、朝廷の使者として外交問題をも任されたものと思います。
つまり、阿曇族は当時における外務省のような役割を担っていたのです。
であれば、交易国の船の入出国管理業務・荷物検査を何処で行なっていたか?ですが・・・。
ここからは想像と浪漫の世界ですが、うっちゃんは印の「弘」だと思っています。
 
鎖国政策をとっていた江戸時代に唯一国交を結んでいたのが、朝鮮半島の李王朝です。
その使節団の最初の受け入れ、つまり入出国管理を担当していたのが黒田藩で、新宮沖の相ノ島に「朝鮮通信使客館」を置いていました。
国交を結んでいたとは言っても、諜報活動者(スパイ)が入国しようとしたり、密輸品などが持ち込まれるかもしれません。
直接、博多の港に船を入れずに、一歩手前でおもてなしの歓待をすると同時に、乗船者や荷物のチェックをしていたのです。
同じ様に、阿曇族も博多湾の何処かに入出国管理の施設を設けていた筈です。
 
そんな観点から、先に示した”博多湾地図”をもう一度見て下さい。
志賀島の「勝間」は未だ玄界灘ですし、「志賀」や能古島では湾内に入り過ぎています。
博多湾の入り口で最も適した場所は「弘」です。江戸時代には漁港として栄えていた記録がありますが、古代に、既に船着場があったと考えても良いのではないでしょうか。
近くで「金印」が発見されたことも、そう考える理由の一つです。
 
 
 
「弘」から10分程で「休暇村志賀島」に到着です。
「休暇村」の前は玄界灘に沿ってビーチが広がっています。神功皇后がここを訪れた時、あまりにも海が美しかったので、馬から降りて休まれたことから「下馬ケ浜」と呼ばれています。
うっちゃんも芝生に座り込み、しばし水平線を眺めていました。
 
                              ●「下馬ケ浜」
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左に”玄海島”の一部が見えます。
ここだけは、1650年前と同じ景色です。阿曇磯良(あずみいそら)の船に神功皇后が乗り,大船団を従えて朝鮮半島へ出航する様を想像しています。
あ~、目の前に悠久の浪漫がゆっくりと流れています。
 
 
弧を描く「下馬ケ浜」を北に歩いていくと、その端に小さな鳥居が見えてきます。
 
     ●「下馬ケ浜」の砂浜                      ●「沖津宮」の鳥居
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海の神様・綿津見大神(わたつみのおおかみ)を祀る”志賀海神社”は古くは、ここ「勝間」の地で3宮から成っていました。
表津宮(うわつぐう)」、「仲津宮(なかつぐう)」、そして「沖津宮(おきつぐう)」の3宮です。
いま、見えているのは「沖津宮」の鳥居です。ここは島になっていて、大潮の干潮時だけ
渡ることができます。今日は難しいですね。またの大潮の時を見計らって来ます。
 
 
3宮の内、「表津宮(うわつぐう)」は阿曇磯良によって「志賀」の地へ遷座しました。
それが、現在の「志賀海神社」です。「仲津宮」と「沖津宮」は摂社として「勝馬」の地に残りました。「沖津宮」から100mほど東に、木々に覆われた小山があります。
その小山の上に「仲津宮(なかつぐう)」が鎮座しています。
 
                        ●仲津宮の鳥居
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鳥居から木立のトンネルを抜けると小さな社殿があり、その手前で古墳石室が発掘されました。
 
                    ●古墳石室 (鳥居横説明板より)
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阿曇族の首長の墓とされています。古墳は埋め戻されていて、正確な位置は確認出来ませんでした。
 
 
勝馬小学校の横から”金印海道”に出て、西鉄「勝馬」バス停から山に向かって歩きます。
広い農村風景が広がっています。志賀島では一番広い集落だと感じます。
紀元前から4世紀頃までは阿曇族の本拠地だったんでしょうか?
砦なんかもあったのでしょうか?
阿曇磯良はここで生まれ育ったのでしょうか?
面影を辿れるものは何も残っていません。
 
ここから「潮見公園」までは緩やかな一本道を上って行きます。
直線距離は短いのでしょが、クネクネした山路を30分ほど歩きました。
志賀島では一番高い海抜176mの「潮見公園」に到着しました。
 
                         ●潮見公園展望台
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ここから博多湾を眺めて、確認したいことがあったのです。
展望台からは玄界灘と博多湾の全て、360度が見渡せます。
時代毎に博多湾を支配した首長・王・領主の拠点が確認できました。
 
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時代毎の各支配者は、間違いなく、この山頂(潮見台)に望楼と狼煙(のろし)台を設けた筈です。
玄界灘から博多湾へ侵入してくる敵を見つけ、それをいち早く知らせることが出来る戦略的な地点はここ以外にありません。
 
博多湾沿いにある拠点は兎も角、大野城が築城された四王子山が見えた事にはびっくりしました。
白村江の戦いに敗れた後、唐と新羅の連合軍が船隊を組んで攻めてくることを、どれだけ恐れていたか・・・ここの望楼を守っていた兵士達はどんな気持ちだったでしょう。
 
 
そんな事を考えながら、ふっと気がつくと、親子連れが楽しそうに話しながら穏やかな博多湾を眺めていました。
 
 
あ~良かね~、今は平和な博多湾たい!
 
 
この後、志賀島入り口まで下りて西戸崎まで歩き、JRで戻ってきました。
疲れはしましたが、清々しい一日でした。
 
 
 
 
博多湾を想う