kashi-heigoの随筆風ブログ-カボチャたち


「平ちゃん、あんたカボチャ作るの上手やね。私また、ぶらぶらと何が生っているかと思うたよ。提灯じゃないがぁって、毎日、畑の近くを通るたびに楽しみにしていたがや」と。
近所の小母さんである。そう言われると、社交辞令とは思いつつも
「もう、採れたのがあるから、味を見てくだされ」と。
提供することになる。もう、6,7個は、心ならずもボクの口に入る前に、ご近所さんに進呈した。すると、
「あーい、勝負したやぁ(助かった)、有難う」となる。
まぁ、たいていの場合、必ずお返しがあるのだが。いわば、物々交換である。これも、村里のコミュニケーションのプロトコールなのである。


kashi-heigoの随筆風ブログ-カボチャ栽培


 昔から、カボチャが好きである。こいつは、風体が上がらないのだが、妙に堂々としている。あまり、身なりや装束に拘らないところが気に入っている。しかし、男を評すには好いが、ご婦人となると物議を醸すことになりかねない。なぜって、不細工な婦人のことを、「南瓜に目鼻」って言うではないか。整った容色を卵に目鼻というし、丸顔にしても、団子に目鼻というが、カボチャに目鼻をつけた日には、愛嬌からほど遠くなってしまう。あまり、ここで筆を走らせ過ぎると、非難轟々と責め立てられかねない。言いたいことは、カボチャは、実にどこにでもある、素朴な存在だと強調したかっただけなのである。


 今年、三種類の西洋カボチャの種を育苗ポットで育て、空中栽培を試みたのだが、思わぬ成果があった。それだけかと思ったら、コンポストの堆肥の中にあった種からも、芽が出てそれにも実が生ったから、80個も採れるという豊作だった。ボクは、生かじりの浅慮から、カボチャなどF1種に決まっている、だとしたら、一代限りで、生ったとしても親とは全く違った形姿や性質で、味などとうてい不味くて食べれたものでないと考えていたのだが、味はまずまずなのである。

kashi-heigoの随筆風ブログ-カボチャ

 先日、ボクはつまらぬことを、近所の小母さんに口走ってしまった、その言というのは、
「今年は、天候も良かったから、カボチャの当り年ですちゃ、堆肥の中の去年のF1種からも、実が生っておる。カボチャ野郎なんて言っておれませんっちゃ」と。
ツレが後で言うには、
「カボチャの当り年ってね、不美人でも、結婚が多い年というのよ、あの小母さんところには、年頃の娘さんがいるのよ」だと。


 このカボチャというやつは、野生的であまり土壌なども選ばず、だいいち連作に耐えるのである。だからと言って、肥しのない土手ではロクなものが育たない。それで、土手カボチャという。肥しをやってほっておけば好いかと言うとそうでもない。雌花のそばの脇芽を掻いたりして、手入れをするとよく生るのである。よしんば、美人と言えども、ほっておいても好いと言うのではない。家庭で好い躾がされなければ、良縁とはならないのではと・・。