大学は理工学部で、女子学生はほんの一握りだった。専攻学科に150人ぐらいいたが、女性はHさん一人だった。クラスのマドンナで、オール優の秀才でとてつもなく人気があった。なにしろ、才色兼備ときている。実に感情や気配りの細やかな人で、彼女を除けば、男性ばかりである。異性を感じさせないように、地味な服装を着て学校にやって来ていた。今でも、昔の指導教授ごとの卒論ゼミの集いがあるのだが、人気があって、いつも引っ張りだこである。紅一点と言うだけではない。卒業して40年以上すぎても、学友の消息など、H女史に聞けば直ぐ分る。
この間、その彼女からメールが届いた、一部をご披露しよう。ちょっと、自慢めいて恐縮だが、ボクのブログについての、感想である。
<ともかくブログを読み出すと面白くて、次々と開いてはパソコンに向かって一人で笑っている姿を想像してください。他人が見たらおかしいとおもうでしょうね。しかし、夫婦二人の平凡な生活の毎日では、お互いに大して話す話題もないし、ましてや小言の種はいくらでもあるけれど笑う種などほとんどないので、笑いを提供してくれるのは誠にありがたいものです。笑うのは健康に良いというし、美容の点でも口元のしわ防止に一番だと・・・>
このH女史、なんと今をときめく、さる大物女性代議士Tのブレインでもある。その、彼女からの、お褒めの言葉とあれば、悦ばぬわけにはいかない。ボクは、このところすごくご機嫌なのである。
<樫さんのブログはユーモアとヒューマン、品の良いエロチズム、豊富な知識、機知、郷愁、共感、人生観などを感じさせられます。跳び馬の話など、私も懐かしく思います。私もとてもおてんばでしたから、近所のガキどもに混じって、助走を利かせてパーンと手をはたくように馬の尻を叩いてなるべく前の方に飛べると大いに得意になったものです。そしてみんなが乗ると馬を潰そうとどんどんとお尻で叩き、反対に馬になったときは落とそうとして体中で揺すったり・・・。そんな荒いことをしても怪我をする人もなかったし、年齢幅のある集団でもそれなりの配慮が自然にできていました。>
時代を共有して、生きてきた。みな戦後の混乱の中に生き、ひもじい思いもしてきた。あのころの情景など、彼女もすぐに思い浮かぶのであろう。
<あの頃は物もなく貧しい時代でした。おもちゃなど何もなく、石蹴り、ゴム跳び、ままごと、缶けりなど身体を使って少しの道具をうまく使ったものです。石蹴りのコートを書く蝋石が貴重でしたし、ままごとのご飯は木の葉を刻んで、木の葉のお皿に盛って。鉛筆削りナイフのお下がりで、如何に細かいご飯が刻めるかが腕でした。
こんなことを書いていても自分でも信じられないほどです。先日中学時代の友達が集まって思い出話をしていたのですが、「家の前の通りを荷馬車が馬糞を落としながら通っていたと思うのだけど、私の錯覚なのか覚束ないのだけど?」と言ったら、そうそう、と同意が返ってきたので安心しましたが、私の実家は新宿区の外れで中野と目白の間くらいです。>
跳び馬の話とは、『半世紀も前のジャングル・ジムと跳び馬』http://goo.gl/E4LNs
の記事である。ボクなど、このメールをもらって、小躍りして数日の間、なんとなく愉快なのである。家内が、怪訝そうな顔をして、「何かいいことあるの、単純なのだから」と言うが、理由は黙っていた。
もう少し、彼女のメールを紹介しよう。なんら脚色していない。素のままである。
<私たちは、昭和20年生まれだから、戦後日本の誕生とともに生まれ、成長がそのまま国の年齢だという。青春時代は高度経済成長期、働き盛りの頃がバブルの絶頂期、バブルはじけて先行き不安な今日この頃となった。ここらで何らかの若返り策をとらなければ行き着く先は、点滴で生かされる延命治療が待っているのかと心配になったりする。人間は、まだいい、いずれ死ぬのだから、国が死に態では若い人が可哀相です。>
さすがに、政治家のブレインだけあって、言うことが大所高所からである。ボクなど、相変わらず、ネコの気持ちになったり、今は、XX魚が旬で刺身にすると旨いとか、女友達のE子にいじめられたとか、温泉に浸かって遊んだとか、愚にもつかぬことを書いている。大いに反省しなければならない。なんだか、久しぶりに、大学時代に戻って、H女史の答案をカンニングしたような、劣等生の気持ちになったが、愉快である。 2012.3.10