ボクの育った村は、漁師が多く、しかも年の大半を遠洋漁業に出かける人も多かった。この人たちの、帰ってくる正月は雪も深く、博打もわりとよくやられていた。少し気性の激しい連中も多かった。だから、他所の村からは、恐れられていた。そんな風に、ブログ『昔のおらが邑は・・』http://goo.gl/DlA3Z に書いた。するとこれを読んだ昔の友人は「そうだったっけ」と訝しげなのである。ことさらに強調するわけではないが、少しやくざな雰囲気が漂っていたような気がする。だから、当時を思い出して、少年一歩手前の幼年時代を思い起してみた。
ボクが小学2年生ぐらいだった。当時、イナゴが害虫でせっかく育った黄金色の稲の葉っぱや茎を食べるので、農協が1000匹単位くらいで、買い取ってくれた。多分数円だと思う。10センチぐらいの竹の筒に袋をつけて、手で掴んでは入れるのである。学校側も応援していて、学童に競わせていたものだ。剛の者など、数万匹も獲ってきた。春はイナゴの卵も買い取ってくれた。するとわずかだが、小遣いになる。漁師の家の子は、農繁期でも、特に家を手伝うこともなかったから、さかんに小遣い稼ぎをやっていた。余談だが、ネズミもモグラも買い取ってくれたものだ。
その稼いだ小遣いで、ボクの村の悪ガキは、パンツゥ(めんこ)を駄菓子屋などで買うのである。これを、りんご箱などを台にして、銘々がパンツゥを置く。順番をジャンケンで決めて、自分のパンツゥを叩き付けて、台に載っているパンツゥを裏返したり、台から落としたりすると、そのパンツゥが自分のものになる。勝負強い奴などは、リンゴ箱にいっぱい持っていた。彼らは、自分のパンツゥにいろいろ細工を施し、ぶつかった時、相手のそれが、風圧で吹っ飛ぶように、逆に自分のは、飛ばないように工夫していた。このパンツゥは、厚紙製の手のひら大のカード型や円形のものだった。片面に写真や図柄が施されていて、鞍馬天狗や戦国武将の絵などであったものだ。コレクションするのもいたが、相手から巻きあげることで、仲間の尊敬を集めることができた。いや、博徒の親分のように崇められるのだった。中には、それを売買する奴もいた。
この他にもビー玉遊びがあった。ボクの知っているのでは、地面の中央に円を描いて、少し離れたところから、自分の玉を転がして、仲間のビー玉をはじき飛ばして、円の外に出すと貰えるのである。やり取りする玉は、ガラス玉である。投げて相手をやつける球は、パチコ玉やベアリングの鉄玉を持っていた。仲間の一人など、紡績工場に勤めている姉ちゃんに頼んで手に入れたというベアリングの鉄球などを持っていた。大きくて頑丈な玉を持っている方が、強いに決まっている。気弱なボクなど、イナゴで稼いだお金で買ったパンツゥやビー玉を取られてばかりだった。
ほんとうは、近所の年上のきれいなお姉さんたちとママゴト遊びやお手玉遊びをしたかったのだが、家の背戸の『飴玉と親不幸な奴』http://goo.gl/CyGmP のイサムなどが、誘いに来るのだ。ボクは、奴らの体の好いカモだったのだ。
そんな子どもたちの遊びを見て、母は何とかしなければならないと思ったのだろう。親戚に頼んで、真空管のラジオを譲ってもらった。毎週2回ほど放送されていた「おはなしでてこい」という番組から、母は童話を聞いては、おとぎ話を聞かせてくれた。初め、聞き手はボクとイサムくらいだったが、そのうちいっぱい集まりだして、部屋に入りきらなくなることもしばしばだった。
あのパンツゥとかビー玉を賭けて遊んだ時代というのは、敗戦で人々の心の傷がまだ癒えない時期だった。こどもがどこの家にも、鈴なりになっていた。やがて、子どもの賭け遊びも、大人たちの花札遊びも姿を消した。経済成長が始まり、たくさんいた子どもたちも、中学を卒業すると集団就職で都会に出て行った。昭和30年前後の頃だった。 2012.3.8