本棚を整理していて半世紀も前の日記が出てきた。ノートの表紙は、くすんでいた。インクの色も褪せて、下手な字で書いてある。少年から青年に衣替えをする頃の青臭い。生熟れで稚拙だが、まあ青春とも言い切れない時期の一コマである。消し難い記録である。甘酸っぱい味がする。ご披露するには、馬齢も重ねて恥じの上塗りのような気がする。面映ゆい気もするが、あえて・・・

 

kashi-heigoの随筆風ブログ-牛


昭和33年5月3日
 中学三年になった。今朝、父ちゃんが、オラに弓子ちゃんちの田圃のシロカキに行けという。彼女はひとつ年上の女の子だ。村一番の器量よし。気になる子である。役場の寄り合いが急にあるって出かけて行った。今日はあったらの(折角の)祝日だ。オラは、牛のケツに繋がっているだけだから、楽なもんだが・・・。午前中で終わるべ。手間賃は、千円だから悪くないが、ちょっこし勉強もせんと、よんべ(昨夜)は向かいの寺で、プロレスを観て興奮した。力道山も豊登のタッグがい(良)かったな。沢田のタケシなんか時間があれば、いつも机にしがみついてる。オラも来年は、高校の試験だ。遅れをとってはなんねー。

 

 弓子ちゃんちの田圃は、ぜんぶ合わせても一反歩だ。あそこの家は、漁業が主やからな。弓子ちゃんも来ていた。名古屋の紡績工場に就職したとばかり思っていたのに、隣町の紡績工場に勤めてるんや。大人みたいにきれいになっとった。家族総出でシロカキだもんな。弓子ちゃんの白い足を見るとオラの胸なんか、ドキドキしたな。オラの頭、少しおかしいのかな。沢田のタケシに相談したらなんて言うかな。「わ(汝)少し色づいてきたがやないがー」って言うにきまっている。でも、あいつは、同じクラスのカヨちゃんに参っているとみんな言うておったな。だけど弓子ちゃんの髪の色は、なぜあんなに黒いのだろう。瞳も輝いて見えた。眩しかったなあ。

 

kashi-heigoの随筆風ブログ-シロカキ


 あそこの家の母ちゃんが、大きい声で言うておった、
「あんちゃん、大きくならはったやね。父ちゃんの代わりが出来るんや。うちの弓子、やがて、嫁に貰うて・・」と。
 彼女は、きまり悪そうに、母ちゃんを睨んでいたな。まんざらでもないのかな。いくつもに分かれた田圃は妙だったな。田圃全体が黄色に染まり、黒ずんだ新聞紙の細切れが踊っていた。初めのうちは、なんだか判らなかった。撒き散らした人糞と落とし紙だと気付くのと弓子ちゃんの恥ずかしそうな顔いろを見せたのと同時だった。

 

 田圃の水は冷たいというより、刺すように切れるように痛いのだ。弓子ちゃんの糞を踏みつぶしながら牛に鞭を入れる。牛も歩き辛そうだが、足場が整ってくると次第にオラと呼吸が合ってくる。半時も我慢すると冷たさは、もう平気だ。銀屏風のように並ぶ北アルプスを背に、立山連邦の雪が溶けて流れる黒部川の大堤近く、牛を使うオラは、弓子ちゃんの前に英雄に映っただろうか。
 

 

kashi-heigoの随筆風ブログ-シロカキあと


 30代は3頭立ての、40代は4頭立ての馬車に乗っているかのように、歳を重ねると時間が速くなってゆくという。急ではないらしい。少しずつ、気がつかないうちにらしい。今も時間の過ぎるのが、ずっと速くなった。そんな<弓子>の弓の矢のように速くなくていい・・・ 

 先日、街のスーパーで弓子さんを見かけた。連れの孫が、昔の弓子ちゃんと瓜二つだった。なによりも、彼女は半世紀を経て弓のように、その仕草といい、たたずまいがしなやかだった。僕は、ほんのいっとき、半世紀も前に、彼女に心寄せた時期があったことを思い出した。あのときから、時間がとまっているような錯覚に陥った・・  2011.12.18