「あんた、平吾ちゃんやろ、ワタシ覚えておろう、同級生のE子やげ」と呼びかけるご婦人がいた。顔は黒く日に焼け、ずんぐりした骨太の農婦である。この人に会ったのは、田舎に移り住んで、すぐの連休明けであった。50年前の、中学の頃の同級生だと言う。この人をしばらく思い出せなかった。その時は、せっかく声をかけてくれたのだと思って、曖昧に辻褄を合わせておいた。ところが、朝の散歩や、菜園の作業をしているときなどに、頻繁に顔を合わせる。E子もたいてい小型トラックを運転していて、その都度車を止めて、親しげに話しかけて来る。その夜、古いアルバムを引っ張り出して確かめようと思った。果たして、中学の卒業写真の中に、骨太のE子の姿を見つけた。紛れもない同級生である。E子は、久兵衛どんのひとり娘だった。急に親しみを覚えた。

 E子を表現するとすれば、南瓜に目鼻という相貌と言っていいかもしれない。少なくとも、眉目秀麗からは、程遠い顔立ちである。あまり頓着しない。先日も、畑の畝の草取りをしているところに、またもや彼女が姿を見せた。僕の畑を一通り見渡して余計なことをいう。

「平ちゃん、野菜に肥しやっとるがかいねエ、なーん、茄子なんか、痩せとるね、野菜って、いっぱい肥しを遣らんならんがやっそウー」という。

僕のやり方は、あまり肥料をやらない主義なのである。化学肥料は一切使わず、土壌の微生物を活用する自然農法だと言うが、いっこうに耳を貸そうとしない。むしろ、説教を垂れる。

「親の小言だと思って、私の話を聞かっしやぃ。あんたアー、知っておろうが、『親の小言と茄子の花は、千にひとつも無駄がない』ってこと」

師匠か先輩風すら吹かせる。

夏の盛りのころだったが、一度彼女の作っているトマト畑を見せてもらった。トマトの枝と葉っぱは、見事だが、トマトが見えない。元肥をたっぷり入れたという。僕は、たしかに百姓一年生だ。だから、家庭菜園などという本と首っ引きで、やっている。肥料などなるべくやらず、水もほんの少ししかやらない宗旨なのである。僕のトマトは、葉っぱは少なく実が多い。一度、彼女のトマトと味比べをしたことがある。彼女のは、淡白で水っぽかったが、僕のは濃厚で甘みが濃かった。E子は、ひとことで片づけた。

「品種が違うがやっちゃ」と。負けを認めようとはしない。

町の種苗店で、売れ残りの瓜を植えて、その存在すら忘れていたところ、雑草の繁茂する茂みの中に、大きな瓜を見つけた。初め、西瓜か南瓜か見わけがつかなかった。  

E子に聞いたら、

「芋オヤジ、こりゃ冬瓜やぜエ。」と答えた。

僕のことを「芋オヤジ」と確かに呼んだ。もう<都会のモヤシ>ではない。秋の収穫が終わったら、みんなが同級会をやるから、僕にも出ろという。日に焼けたあの顔と冬瓜を見比べて、E子を秘かに、<冬瓜オバサン>と思うことにした。E子は、冬瓜の顔に白粉を塗って現れるだろう。<芋オヤジ>は、冬瓜、南瓜、ジャガイモ、サトイモの集まる集いに、どんな出で立ちで行こうか迷う。



kashi-heigoの随筆風ブログ-白粉をした冬瓜  


2011.9.8