私のささやかな菜園は、お寺のそば近くにある。菜園に接するように、父や母が眠るお墓をふくめて数基のお墓がある。そのひとかたまりは、親戚のお墓である。ひとり息子の私が墓参りを忘れても、親戚の誰かが参ってくれるだろうと、父は考えて、土地を提供したしたものだ。私も馬齢を重ねて、この年齢になると分かる気がする。

毎日菜園に通うようになって、数年前に加わった新しいお墓に、花が供えられているのに気づいた。しかも毎週のように新しく供え変わる。私が、田舎に居を移したのは、この五月の連休前であるから、三か月も毎週、お墓の二つの筒に立派な花が、活けられていることになる。一抱えにあまる花である。誰がこうして供え続けているのか。ふとその人に会ってみたい気がした。

この新しく加わったお墓について、話しておこう。もう十年も前のことだ。母の認知症の具合が、だいぶ進行したころだった。親戚のMさんが、久しぶりに東京から帰省した私を訪ねてきた。

「平吾さん、今日はえらい気兼ねなことを頼みに来たが。この間、ワタシの主人亡くなったんやけど、なーん墓を持っとらんものやから、お骨を納めるとこないが。あんたとこと、うちとはいっけ(一家、親戚)やにか、お墓の土地をいくらか譲って貰えんやろうかと頼みに来たが。お母さんより、あんたと話をせんとね。」

 私は、家業が漁師であるMさんをよく知っていた。なによりも亡くなったご主人の安住の場を提供しなければと考えた。



田舎の海は、寄り回り波やダムなどの影響で、海岸の浸食が著しく、昔の浜の景色を一変させたとブログ<景観をトレードオフか、カキ貝と>に詳しく書いた。海辺の人々は、屋敷を捨て山の方へ向って、500メートルも動かざるを得なかった。このあたりの家というのは、大きな材木を使っている。築年数で80年以上は、持つはずであるが、浸食がそれを許さなかった。もっと村人の想定を超えたのは、お墓である。墓地などは、孫末代まで一か所でいいはずだった。農家は、土地があるからまだいいが、困ったのは漁師である。そのせいだろうか、家の近くの寺の境内は、お墓で埋まっている。

 

数日して、朝はやく菜園の手入れをしていると、声をかける女性がいた。50歳を過ぎた清楚な感じのする美しい人である。

「キュウリ、ピーマン、トマトと、えらくよう生りましたね。」と声をかけられた。

なんとくだんの女性である。私は、

「いつも、きれいなお花を供えておられるのは、あなたでしたか」と応じた。

彼女は、私の名前をすでに承知しているようで、

「平吾さん、義父と義母が相次いで亡くなったあと、私の主人も一昨年に、母親のあとを追うように、みまかりましたが。義母が、あなたから、墓地を譲ってもらって、本当に勝負した(助かった)と生前言っておりました。私からも、お礼をいいますちゃ。」と言葉を継いだ。



 彼女が去って、お墓を見るとお盆まで、だいぶ間があるというのに、お墓のまわりの草取りもなされ、すっきりとなっているではないか。すでに、新しい花が供えてあった。豊かな色彩の花菖蒲. 山百合. 桔梗である。

 菜園で収穫した野菜を片手に、寺の山門にさしかかった時、掲示板にお説教の題目が掲げられていた。

      『見ずや君 あすは散りなん 花だにも 力のかぎり ひとときを咲く』

                         九条武子


                                                           2011.7.27