「オー、平吾さんじゃないが。何年たっても、変わらんね。懐かしいちゃ。東京から、帰っていらしゃったがやってネ」

妻に言われて、引っ越しの時に使った不要の段ボールをリサイクルセンターに持ってきた時、正ちゃんに会った。彼は、僕がここに最近移り住んだことをすでに知っていた。昔ながらの言葉でいいのに、よそ行きの丁寧な口の利き方をした。小学校跡地のリサイクルセンターで、責任者として、住民が持ってくる古新聞、段ボールやペットボトルなどの切り分けをしている。


小学生の夏休みの行事のひとつに、毎夜、拍子木を叩いて、村を回る<火の用心>があった。十人ぐらいが、一チームで小一時間ほど回る。八月には入って、気の緩みが出る旧盆前の2週間位の期間だった。それは、小学生の4年生以上の男の児童に課せられていた。みんなどうせ暇を持て余していたから、格好のイベントだった。上級生が、チームを牛耳っていた。この火の用心回りの一番の関心事は、誰が拍子木を持つかにあった。他のメンバーは、ただ口をそろえて、「火の用心」と叫ぶだけである。その指名権は上級生が持っていた。上級生の一人は、先ほどのリサイクルセンターの正ちゃんである。彼は、上背がある上に、腕力もあって、相撲などやっても彼の右に出るものがいない。もうひとりは、映画の話の名人のマー坊だった。

ある晩、正ちゃんが言った。

「今夜は、わいらにも(汝ら)にも、拍子木持たせてやるっちゃ。みんな、俺の方を向けて、ケツ出せまん。叩いて、一番好い音したら、そいつに拍子木持たせるが。二番目に好い音したら、ちょっとだけ持たせてやるっちゃ。」

次々と、下級生は、みんな二人に尻を突き出す。すると、平手が大きく振られて下級生のお尻にあたる。

「痛ったイ。アの音、好かったろうが

平手の音より、悲鳴が笑いの中に響いたものだ。中で一番いい音のでるイソムが、いつもその栄誉に浴した。イソムは、当時僕が住んでいた古屋敷の裏隣の家の末っ子だった。

 またべつの時、上級生のマー坊が、最近観た<お化け屋敷とお岩さん>の映画を講談の弁士のように、真に迫るように話をした。その話の後、肝試しになった。お墓の奥に拍子木が置いてあって、その拍子木を持ち返って来たものが、翌日の拍子木を持つ権利が与えられるというものだった。その夜ばかりは、マー坊の演技が利いて、誰も名乗りを上げるものがいなかった。

すると、正ちゃんが、寺の三男坊のノンちゃんに向かって言う。

「ノン、わア(汝)行って来い。小寺の出のくせに、墓に拍子木をとりにいかんとは、なんじゃ」と。正ちゃんの一言で、ノンちゃんは、泣きながら拍子木をとりに行くことになった。一方、僕は背が低かったし、とてもお墓などに行く勇気はなかったから、小さくなっていた。


 あれから60年も過ぎても、僕は昨日のように、あのいくつかのシーンを覚えている。あれは、決して、いじめではなかった。みんなそれなりに楽しんでいたのから。先輩から、年々引き継がれた伝統ある余興だったのだろう。。

あの時のメンバーの消息を正ちゃんに聞いた。マー坊は関西のドサ回りの役者をやっていて、数年前にお墓参りに、この村にやってきたこと、同級生のイソムは、大阪のヤクザの組に属し、そこの組のいい顔だということ。泣きながら拍子木をとりに行ったノンちゃんは、信州の小寺に養子に入り、住職をやっているそうである。みな懐かしい思い出である。

                          2011.7.31