2016年7月26日、相模原市にある県立の知的障害者施設「津久井やまゆり園」で、入所者19人が殺害された。
判決公判は2020年3月16日に開かれ、横浜地裁は被告人(植松聖)の完全責任能力を認定した上で、求刑通り植松に死刑判決を言い渡した。
事件から8年が過ぎた。8年前のそのとき、あと1年で再雇用期間が終了する間際だった。8年後の今、知的障害者数百人が入所している施設で働いている。
障害者を支援する「人」たちがどんな「人」たちなのか知りたかった。また、40歳を過ぎた娘(知的障害)の自立のためのヒントがそこにはあるかもしれないという思いだった。
数百人の障害者が生活していれば、そこには支援する数百人の「人」(職員)がいる。正職員、嘱託職員、臨時職員で構成される老若男女の「人」たちだが、その「人」たちについて思ったことは一つだけである。
『人多き人の中にも人ぞなき、人となれ人、人となせ人』。
ここにある「人」の意味?私見であるが珍しいほどの立派な人になれというのではなく、ごく普通に人として当たり前であってほしいということである。なぜなら、「人」なのに障害者とともにあると、いつの間にか「優越欲」が無意識に働くらしい。障害者を「人」として果たして見ているのだろうか?そんなことが疑問符となって頭をよぎる局面を度々目にしているからである。そして、ここで働くということは植松死刑囚と同じく、「支援する人たち」と障害者との関係は役割関係である。役割関係を超えたところにあるもの、それは純粋に「人」と「人」との関係しかない
のであるが、相手にハンディがあると欠落してしまうらしい。
さて、植松死刑囚は一貫して次のように言っている。
「自分が何者であるかもわからず、意思疎通がとれないような障害者は、生きていても社会に迷惑をかけるだけであるので、殺害してもよい」
「何もできない者、歩きながら排尿・排便を漏らす者、穴に手をつっこみ糞で遊ぶ者。奇声をあげて走り回る者、いきなり暴れだす者、自分を殴りつけて両目を潰してしまった者」などを手記の中で列挙し、「彼らが不幸の元である確信をもつことができました」と主張した。
「障害者なんていなくなればいい」。
たぶん、これは一部の「人」が言っていることではないような気がする。老生の娘のことはどうなんだろう。一応意思疎通はできるが、難しいことになるとパニックを起こす。いなくなればいい、そんな思いが全くないとは言えない。社会にも自分にも「黒い部分」があるのは確かだ。
重い知的障害のある娘と暮らしている和光大学の最首悟さんは、
「『障害者は人ではない』という植松被告の主張に、裁判所は踏み込んで判断することを避けるしかなかったのではないか。現在の法制度では彼を正当に裁くことはできないのだと思います」
「植松被告は、人間の尊厳をきれいごとだと言いますが、それは本当に彼だけの考えなのか、人間の平等、人間の権利が私たちにどれだけ根づいているのか大きな問題だと感じます」
きれいごとという言葉の対局には、きれいごとではないというドロドロした「黒い部分」がある。そういう二面性を持っているという自覚がある「人」には「共生」もきれいごとなのである。
果たして障害者が生きる意味、と健常者が生きる意味にどれだけの差異があろうと、その生きる意味にモノサシを用いない限りでは「人」としての生きる意味は同じなのではなかろうか。そういうモノサシでは計れない関係を本当の人間関係というのだろう。
意思疎通ができなくても「人間関係」はできるものなのである。