事故が多い。
事件も多い。
かつての日本はこうもそれらが多くはなかった。
そして、凶悪化、粗暴化なのであり、これでもかと物騒なことが止まなくなった。
文明病もここまできたか、モノが豊かになったからか。
いや、何も豊かにはなっていない、何かが貧しくなったのだ。
この国の豊かさは何かの象徴だろう。
そんな感じが、最近のマスコミからの爺の心情なのです。
「豊かな国ほど 心が貧しい。
物質的な貧困に比べて心の貧しさは深刻です。」
マザーテレサが、日本人への提言として次のように言っている。
「けさ、私は、この豊かな美しい国で孤独な人を見ました。
この豊かな国の大きな心の貧困を見ました。」
「カルカッタやその他の土地に比べれば、貧しさの度合いは違います。
また、日本には貧しい人は少ないでしょう。」
「でも、一人でもいたら、その人はなぜ倒れ、なぜ救われず、その人に日本人は手をさしのべないのでしょうか。
その人が飲んだくれだから!でも、彼もわたしたちも兄弟です。本人はきっと孤独でしょう。
みなから無視されての・・・やけ酒かもしれません。」
「私は、短い間しか日本に滞在しないので手を貸してあげるのは、僭越だと思い、何もしませんでしたが、
もし、女の人が路上に倒れていたらその場で、語りかけたり、助けていたと思います。
豊かそうに見えるこの日本で、心の飢えはないでしょうか。
だれからも必要とされず、だれからも愛されていないという心の貧しさ。
物質的な貧しさに比べ、心の貧しさは深刻です。
心の貧しさこそ、一切れのパンの飢えよりも、もっともっと貧しいことだと思います。
日本のみなさん、豊かさの中で貧しさを忘れないでください。」
「愛は家庭から始まります。まず家庭の中で不幸な人を救いなさい。
両者が愛し合い、母親が家庭の中心となりなさい。平和とうるおいの家庭が築けたら、隣人を愛しなさい。
自分が、自分の家庭が、愛に満たされなければ隣人を愛せません。」
マザーテレサは三度来日したが、豊かな日本にある心の飢えを的確に見抜いていた。
飢餓という飢えより、精神的に飢えている人たちのなんと多いことか。
空腹なのではないんです、愛情に満たされていないのです。
儒教の教えに「修身斉家治国平天下(しゅうしんせいかちこくへいてんか)」がある。
天下を平らかに治めるには、まず自分のおこないを正しくし、次に家庭をととのえ、
次に国を治めて次に天下を平らかにするような順序にしたがうべきである、という。
先ずは自分を修めることなのだが、他人(ひと)はよくみえても自分がみえていないから始末が悪い。
家庭内で、職場内で、あるいは道すがらの知らない人同士でも、
ちょっとした一言や態度が原因でこれまで穏やかだった気分が一変するなんて経験、誰にでもあるだろう。
その責任を
「あいつのせい」
「家庭のせい」
「これさえなければ(あれば)」
「教育のせい」
「社会が悪い」
「政治が悪い」
と、誰かのせい、何かのせいにしてしまう。
確かにそこには何らかの因果関係があったとしても、自分の外側のせいばかりにしていては一向に解決はしない。
「自分に非はなかったか?」と矢印を自分に向けてから考えるのが「おとな」というものだろう。
自分の心の平和を一番に邪魔しているのは自分だと気づいたほうが楽だから。
むかし、サイババという人がいた。
生前、ある信者が「I want peace(私は平和が欲しい)」と求めたとき、
「I(私)を取りなさい。want(欲しい)を取りなさい。そうすれば『peace』だけが残ります」と言ったそうだ。
益々物騒な世の中になっていく。
そんな時「私」というボリュームをちょっとだけ小さくしませんか?