その中でも最も著名なのが、ここ東京都千代田区大手町にある『将門塚(平将門の首塚)』であり、平将門所縁の地としては他に『神田神社』や『筑土神社』がある。
初めてではありませんが所縁の日にお導き頂きました。墓石は写真撮っていません。。合掌☆
享保6年(1721)夏、一晩で17名の辻斬残骸があり、この不祥事を憂いて池袋村民有志64人が雑司ヶ谷鬼子母神威光山法明寺第二十二世日相人に供養をお願いし、同年9月法華経のお題目を刻した石塔を建立して無縁仏の霊冥福を供養した。
正面にはお題目があり、法華経の功徳により災難は解消された。〜池袋四面塔尊奉賛会より

厄払い・延命長寿・開運の神〜
御祭神〉天御中主大神、
安徳天皇 第八十一代、
建礼門院 (高倉天皇の中宮・安徳天皇の祖母)、
二位ノ尼(平清盛の妻・安徳天皇の祖母・建礼門院の母)
今から八百年昔、寿永四年(1185)日本の国は源氏と平氏の二つに分かれて戦った。
最後の決戦の場になった赤間関(下関市)の沖合 壇ノ浦の戦で敗れた平家の女官按察使の局が
源氏の目を逃れ久留米付近に落ちのび、一門と共に入水された安徳天皇、建礼門院、二位の尼の御霊をささやかな祠を建てお祀りしたのが創め。
更に天御中主大神(この国を創ったと伝えられる神)を祀り、やがて平家の三方とこの神の四柱を祀るこの祠を水天宮と称されるようになる。
慶長四年(1600)有馬豊氏は、家康から筑後川沿岸を領有する久留米藩主を命ぜられ、二代目有馬忠頼は、このあたりの村人たちが厚く水天宮を敬うのを知ると、立派な新社殿を建て寄進。
この水天宮様は筑後川のほとりにあったので、元来は名の水を司る神様で水天竜王とも言う。
阿蘇、九重の連山に源を発し、有明海に注ぐ九州第一の大河筑後川は、静かに流れている時は
豊かな米、麦の実りを助けますが、大雨が降り続くとまるで狂った竜のように暴れて、人家を呑み田畑を流す。やがて藩主有馬頼徳の時代になって、参勤交代で江戸へ来ているあいだも郷里の天候が心配で、文政元年(1818)久留米の水天宮を江戸の藩邸内(港区赤羽)に分霊して祀り、筑後川の氾濫がなく五穀が実るように祈願。当時の江戸は世界一の大都市であり、諸国から集まって来る大名が多くの家来を連れて江戸へやって来るので水天宮も参拝人で大層賑わった。明治維新により藩邸が接収され有馬邸の移転で青山へ、更に明治五年現在の日本橋蛎殻町に御鎮座し、昭和三年池袋繁栄策の為に分霊された。〜池袋水天宮奉賛会より

御祭神〉倭健命(やまとたけるのみこと)、神武天皇(じんむてんのう)、武甕槌命(たけみかずちのみこと)
倭健命(『古事記』表記、『日本書紀』では「日本武尊」。 第12代景行天皇皇子で、第14代仲哀天皇の父にあたり、熊襲征討・東国征討を行ったとされる日本古代史上の伝説的英雄。
神武天皇(カムヤマトイワレビコ)は西暦紀元前660年2月11日に、橿原の宮で初代天皇として即位。記紀の日本神話においてはこの初代 神武天皇から皇統の系譜が始まり、現今上天皇で125代(皇紀2679年4月末譲位される)。
武甕槌命は日本神話の神様で、雷神、剣の神。
境内には池袋と呼び方が似てる所縁か、「不苦労・福籠」と言われる梟の親子像が設置されていた。末社に稲荷神社。御朱印あり。
『三社神社』
池袋御嶽神社の裏辺りにあり、稲荷様が祀られていた。境内には「正量不動」の石碑ある。
三社神社とは?と帰宅してblogアップする為調べたら、祠の右側に「嚴嶋辨財天(厳島弁財天)」があったらしい❗❔

また、結縁しに行かなきゃね(笑)
お疲れ様でした(^o^)/