『2018年春の青春18歳の旅:勝浦編』&リベンジの旅♪ | 歴史の散歩道~KANAのひとりごと

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歩いて発見した大好きな場所、出逢った人たち~

女優&カラーセラピスト・上級食育指導士として日本の歴史を創った偉人たち(史跡・神社寺院・老舗)を歩き感じたKANAの思いを綴ってみました♪

あなたへの、新たな発見&気づき&癒やしになれば嬉しいです♡

半年で見た目20歳年を取(太)った私ですが・・

気持ちは青春18歳と言うことで、
今年も行って来ました『青春18歳(切符)の旅』

先日の『 “ 初 ” 大回りの旅:千葉一周&唐揚げ蕎麦』で、味をしめ(笑)

今回も房総半島一周の旅として、
猿田神社と館山くじら弁当のリベンジ兼ねて♪

向かった猿田神社(猿田駅)は、

なんと、

「仏滅で本日(神社)は休み❗」

え〜👀 神社に休みってあるの❗❔


と、びっくりしましたが、

これも “ レア ” もの

前回は午後の時間で閉門と敷居は高いが・・

また来なさい❗って事ですよね〜(笑)


と、次回をお楽しみに♪

次なる目的地は猿田駅から成東駅〜東金線東金駅経由(前回の逆バージョン)で、先月トーマさんと参拝したばかりの上総一ノ宮駅『玉前神社』は乗り過ごす予定が、上総一ノ宮駅で乗り換え時間30分あったので急ぎ参りました『玉前神社』


からは、初めましての勝浦へ🐟


勝浦駅から歩いて10分の『遠見岬神社』のみ参拝の予定でしたが♪
*宮司不在で、御朱印は頂けませんでした。


岬の方まで歩いてみました(^o^)/


桜が満開\(^o^)/🌸🌸🌸🌸🌸🌸

景色最高🌈




養珠婦人(お萬の方様)生誕の地

「お万の布さらし」の地でもありました❗
←初めて知りました☆歴史の散歩道★

*お万の方様は浜松城では陰山殿とも呼ばれてましたね♪
少し勉強したいと思います(*^^*)

*遠見岬神社については下記に記しました↓




でからは、
昨年2017年4/10(月)駅弁の日〜
『2017年春の青春18歳の旅:館山編』で
幻となった駅弁「くじら弁当」のリベンジ〜




念願叶いました❗
完食( v^-゜)♪



車窓から、夕陽を眺め今回の旅は終わり🔚

と思って油断したら(メールしてて)乗り過ごしました〜快速(笑)

電車あるある☆★☆別路線で帰宅( v^-゜)♪
 


『2017年春の青春18歳の旅:館山編』
後日アップします♪と言っていて、出来ていませんでした(>_<)

今から思い出しながら、編集しようかしら(笑)

読んで頂き、ありがとうございます(*^^*)

お疲れ様でした❤

ー本日(2018.3.15(木) 365.9kmの旅🚃ー

 
『遠見岬(とみさき)神社』
ー遠見岬神社ものがたりー

一章:関東を開拓した神様・天冨命〜
当社の御祭神・天冨命(あめのとみのみこと)は忌部氏(いんべし・斎部氏)という一族に属します。忌部氏とは、天太玉命(あめのふとだまのみこと)を祖とする一族で、中臣氏とともに朝廷の祭祀を司り、祭具の製造や宮殿・神殿の造営などを行う名門氏族でした。

平安時代に書かれた神道資料『古語拾遺』によると、始祖の天太玉命は、高皇産霊神(たかみむすびのかみ)の子と伝えられています。高皇産霊神の娘と結婚して生まれたのが、天皇家の祖先・瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)です。瓊瓊杵尊が天照大神より地上を治めるように言われ、地上に降臨した際に天太玉命も従いました。天冨命はこの天太玉命の孫にあたる神様です。

天冨命の御実績の一つを『古語拾遺』に見ることができます。初代天皇である神武天皇は東征を終え、都を橿原(奈良県)につくる際、天冨命に皇居を造営するよう命じました。そこで天冨命は、手置帆負命(たおきほおひのみこと)の、彦狭知命の二柱の神様の孫を引き連れて「斎斧(いみおの=神聖な斧)」、「斎鋤(いみすき=神聖な鋤)」を使い、初めて山の木を伐り、正殿を築きました。そして、各忌部氏族を率いて種々の神宝を作るように命じ指揮したのです。この時、天日鷲命(あめのひわしのみこと)の孫は天冨命に従い、阿波国麻植(後の麻植郡)において祭祀に使用する麻や「穀」(かじ=こうぞの一種、和紙の原料となる)の栽培をし、阿波忌部氏となります。その他、櫛明玉命(くしあかるたまのみこと)を祖とする出雲国の玉作氏(たまつくりし)、彦狭知命を祖とする紀伊忌部氏、手置帆負命を祖とする讃岐忌部氏、天目一箇命(あめのまひとつのみこと)を祖とする筑紫国・伊勢国の忌部氏など、忌部氏は開拓のため各地に広がり、多数の氏族に枝分かれしていきます。

二章:房総半島に渡り、文化を伝える〜
天日鷲命の孫たちを従え、阿波国の開拓をした天冨命は、さらに豊かな土地を求めて阿波忌部氏の一部を連れて海を渡ります。黒潮にのって東へ、やがて着いた土地が今の房総半島です。上陸した御一行はさっそく麻や「穀」を植えました。すると特に麻の育ちがよく、麻の古語である「総(ふさ)」から総国と命名しました。上総国、下総国という名称もここから由来します。また居住地には、祖神である天太玉命の社(現在の安房神社)を創建し、以前いた四国の阿波国の名をとって「安房」と名付けました。今でも房総半島に阿波国と同じ地名が多数あるのはこのためです。

安房の開拓を終えた天冨命たち忌部氏は関東の開拓に乗り出します。房総半島を北上し関東一円に麻や「穀」を植え、養蚕や織物、製紙などの技術を伝えました。開拓を終えた天冨命は当地においでになり、遠見岬(現在の八幡岬突端)に住まわれ、先住民たちに漁業や農業、建築などの技術を教えました。現在、全国的に有名な勝浦漁港ですが、これも天冨命の御事績といえます。

天冨命が当地にお隠れになると、天日鷲命の後裔である阿波忌部氏の勝占忌部須須立命(かつらいんべすすたつのみこと)が冨貴島に社殿を建立し、開拓の祖神として御神霊をお祀りしました。これが当社の創建と伝えられています。また勝占忌部が住んだことからこの地は勝占(後に、勝浦・かつうら)と呼ばれるようになりました。勝浦は、天冨命が最後に住まわれた神聖な地なのです。

現在、当社に残っている最も古い記録に承和二年(835)の正殿修理の記述がありますが、度重なる津波・火災により古文書の多くが失われたため詳細は定かではありません。しかし、大化の改新以後、律令制度によって総国は上総国、下総国の二つに分けられ、後に上総国から安房国が独立。勝浦は安房と上総の境界の上総側に入りました。

都に残された木簡から当時の勝浦の様子が垣間見えます。木簡には、上総国から都へ運ばれた品物として、特に鮑が多く運ばれた記述が見られます。また、勝浦市守谷(もりや)のこうもり穴遺跡から、三世紀頃の鮑殻が多量に出土しました。

鮑は宮中での祭祀に用いられ、殿上人に珍重された貴重な海産物でした。現在でも、鮑は勝浦の名産の一つ。当時から勝浦が漁業の町であったことがうかがえます。

そのため当社においても、「船霊様」の信仰が古くから残っています。船霊様とは、船に宿る神様のことで、海での漁や航海の安全を祈ります。古くは天冨命が伝えた麻で作られましたが、嘉永五年(1852)頃に人形の形に変わりました。当時から、当社も漁の無事を祈願していたことでしょう。

三章:勝浦城建設 海上の要衝として発展〜
 天慶二年(939)、平将門が朝廷に対して乱を起こします(承平の乱)。その際に、将門の参謀格であった興世王が勝浦に砦を築き、これがのちの勝浦城のもととなったとも言われます。鎌倉時代になるとこの砦は上総広常の支城となります。源頼朝が関東の経営に乗り出すと広常も頼朝に従います。しかし、謀反の疑いをかけられ謀殺され、上総は千葉氏や三浦氏に分配されました。

また一説には、大永元年(1521)に真理谷武田氏によって築かれたとも言われます。現在見ることができない勝浦城を古地図によると、八幡岬から鳴海神社、その下の恵比寿地区まで、南北に長細い形状となっています。天文十一年(1542)には、勝浦正木氏の初代正木時忠が勝浦城に入城。二年後の天文十三年に、真理谷武田氏は滅亡します。その後、二代時通、三代頼忠の居城となり勝浦正木氏の統治が続きますが、天正十八年(1590)、北条氏が豊臣秀吉によって滅亡すると、勝浦城も本多忠勝や植村泰忠らの軍勢に攻められ落城しました。この時、頼忠の息女お万は炎上する城から母と弟を連れ八幡岬の断崖に白い布を垂らし海に下り、小舟で館山方面に逃れました。現在も八幡岬には「お万布ざらし」の伝承を伝える「お万の像」が建てられています。逃れる際には当社の側を通りぬけていったことでしょう。御祭神の加護篤く、お万は無事逃れのちに家康の側室となり、紀伊徳川家藩祖・頼宣、水戸徳川家藩祖・頼房の二子を産みました。

四章:現在地に遷座 庶民の生活を守護する〜
江戸時代になると勝浦は、「勝浦三町江戸勝り」と例えられたほど繁栄するに至ります。
時が下った現在では、レジャーや観光、街全体が雛人形に彩られる『かつうらビッグひな祭り』など、全国から人々が集う地となりました。
勝浦の地を古くより見守り続ける天冨命は今も人々をお守りくださっております。

( 遠見岬神社webサイトより拝借していますhttp://www.tomisaki.or.jp/ )