安定的な皇位継承とは、誰のためなのでしょうか?皇位が断絶したら、どのようなデメリットがあるのかを、国民に丁寧に説明するべきでしょう。どうしても公務が必要ならば、民間人が代行したらいいのです。古代ローマでは王政が廃止されると、ファスケースと呼ばれる王の象徴を、コンスルという左大臣と右大臣が携行するようになりました。

 天皇と最初に名乗ったのは大海人皇子で、それ以前は大王と呼ばれていました。当初は天皇が後継者を決めていたのですが、やがて実質的に藤原北家が決定するようになり、藤原道長の死後に院政を開始して一時は盛り返しますが、上皇同士の争いから平家の天下となり、北条義時の権威は天皇すら上回り、南北朝のきっかけとなります。

 金閣寺で有名な足利義満は約束を破り、南朝方を即位させなかったため謎の死を遂げ、各地で一揆が頻発して応仁の乱に至り、京の都は焼け野原になります。カルタゴ滅亡後のローマで、かつての支配民族であるエトルリア人が暗躍するのと似ているのかもしれませんね。南朝が歴史の表舞台に現れるのは幕末で、明治天皇が江戸に遷都するのは、正体を見破られないためなのでしょう。

 それでも多くの目を欺き続けるのは難しく、大正天皇が子供を作る能力がなかったのは宮廷の陰謀と考えられ、昭和天皇は北朝系の代理父の子と考えるのが自然です。日本には元々女児が生まれると男児と交換する猶子の習慣があり、平清盛と宗盛の親子もそうです。古代アテネにも奴隷の生んだ男の子と取り換える実態があり(ヒュポボリマイオス)、密室では何が行われていても、おかしくはないのです。

 怒った長州の人々は昭和天皇を戦争に引き込もうと画策し、敗戦に導いて責任を追及しようとしたと考えられます。真珠湾で予想外に大勝すると、陸軍はそれ以上の追撃に反対しましたし、エノラ・ゲイの接近と目的に気付いていたのに、あえて迎撃しませんでした。昭和天皇が処刑を免れたとき、ようやく南北朝の争いも終わったのです。

 バブル期は天皇の権威が最も低下した時代の一つで、大した議論もなく天皇制を継続したことが、停滞の遠因になっていることは否めません。もちろん昭和天皇の崩御で緊張感が喪失し、モラルが低下して坂道を転げ落ちたことも事実でしょう。