皇室は昔から女系だった
イラン人は自国の歴史を5,000年と豪語しますが、日本の歴史は古事記や日本書紀の記述を信用するなら、イランの約半分でアメリカの10倍の2,500年ほどになりますが、考古学的な証拠は2,000年未満で神武天皇とされる墓も前方後円墳ではありません。 生命の歴史がカンブリア紀以降に5度の大絶滅を経験しているように、皇室も何度か皇統が断絶しています。最初の断絶は武烈天皇の死後で、5代前に遡って継体天皇が即位しますが、越前に上陸した百済人が新たな王朝を開始したと考えるのが自然でしょう。 しかも武烈天皇の妹の手白香内親王が産んだ欽明天皇が皇位を継承しているから、事実上の女系相続なのです。欽明天皇の弟の崇峻天皇を暗殺した蘇我馬子が悪評を受けていないようだし、祖先の蘇我満智が百済の木満致と同一人物というのが定説なので、蘇我氏に王権が移行したと考えられ、当時は天皇ではなく大王(おおきみ)と呼ばれていました。 次の皇位断絶は称徳天皇の死後の光仁天皇の即位で、女性天皇はこの間に集中していて、推古天皇は持統天皇の即位を正当化するための、架空の天皇なのかもしれません。当時は出産は汚らわしいと考えられていて、即位すると性交が禁止されたと考えられ、男系が尊重されていたわけではないのです。 赤ちゃんに触れるだけでも穢れとされ、乳母が皇太子を育てる決まりになっていました。古代ギリシャにも似たような習慣があり、オデュッセウスにはエウリュクレイアという乳母がいたし、アルキビアデスにもアミュクラという乳母が伝わっていて、日本人と古代ギリシャの先住民は近い関係にあるのかもしれません。 皇室典範の改正が上皇陛下の意向だったとしても、美智子さまは自ら徳仁親王や文仁親王を育て穢れているのだから、愛子さまの皇統を妨げる論理も破綻していることに気付くべきです。つまり前例のある女性天皇よりも、前例のない直接養育が問題にされなければいけないのです。 光仁天皇の即位は天武系(親蘇我)から天智系(反蘇我)の転換ですが、称徳天皇の妹の井上内親王が産んだ他戸親王を皇太子にして、やはり女系相続を目指しますが陰謀が起こり、即位したのは百済系の母から産まれた桓武天皇でした。それでも桓武天皇は他戸親王の妹の酒人内親王から産まれた、朝原内親王を平城天皇に嫁がせますが、平城天皇があまり尊重しなかったため、天武系(仏教界)から総スカンを受けたようです。 そのため平城天皇の弟で、蘇我系で光明子(かぐや姫)にも繋がる橘嘉智子を娶った嵯峨天皇が好まれたようですが、長子相続が確立されると取り巻きが固定化され、藤原北家による摂関政治を招きます。素行の悪い陽成天皇が廃位されるのは武烈天皇と似ていて、清和天皇と藤原良房の皇統は断絶しますが、因果応報から子孫の源頼朝が天皇親政を終わらせます。 良房の甥の基経が高齢の光孝天皇を擁立すると、道長の時代まで幼少の天皇が即位し、道長の時代は女の家に居候するのが常識でした。後冷泉天皇が崩御すると熟年の後三条天皇が親政に目覚め、息子の白河天皇が院政を創始しますが、上皇と天皇の対立から武士が実力に気付き、後鳥羽上皇は隠岐へ流されます。 天皇の権威は地に堕ち北朝(持明院)と南朝(大覚寺)が争い、最終的に北朝に統一されますが、明治天皇や伊藤博文が南朝を正統としているのは、別人が睦人親王に成り済まし、素性がバレないように誰も知らない江戸に遷都したと考えられ、本物の睦人親王なら千年も続く都を放棄したりはしないでしょう。 600年も昔の旧宮家から迎えるくらいなら、嵯峨天皇の遠い子孫である聖子ちゃんが即位した方が国民の理解を得られるでしょう。高市内閣は親米政権なのだから、アメリカを見習って共和制を目指すのが自然だし、「日出ずる国」とは中華民族の呼び名なのだから、中国が嫌いなら日の丸も変更するべきで、ゲルマン人がゲルマン(生粋のガリア人)と名乗っているようなものです。参考文献 蘇我馬子は天皇だった 石渡信一郎 三一書房 1991年 歴代天皇総覧 笠原英彦 中央公論新社 2001年 平城天皇 春名宏昭 吉川弘文館(人物業書) 2009年 豊璋 藤原鎌足の正体 関裕二 河出書房新社 2019年 順徳院 藤原真由美 株式会社マディオ 2022年