訃報の多かった秋の締め括りは仲本工事さんでしたが、テレビではよく観ていても、一度も会ったことのない人の死を悲しむのは、決して健全なことではないのかもしれません。つまり情報の発達が思い込みを増大させ、面識のない人物の誹謗中傷を助長してきたからです。

 ところで日本人は社交儀礼的に「冥福をお祈り致します」と言いますが、本当に死後の世界を信じている懼れがあります。死後に幸せになれるのなら、投票に行って現実を変えようともせず社会の停滞を招きます。また失敗してもやり直せると安易に考え、だまされやすくもなります。

 芸名という世界的にも特異な慣習も輪廻転生的な発想と考えられ、ハロウィンが普及したのも偶然ではないでしょう。もっとも往来の少ない時代にはファーストネームだけで十分で、出身地や祖先がそのまま名字となったはずで、本名とは税制や治安上の要請に過ぎず、名前本来のあり方ではないかもしれません。

 古代ローマでは民衆の権利を拡大すればプブリコラとか、カルタゴを占領すればアフリカヌスと副名が添えられました。また身体的な特徴から盲目のアッピウスとか、赤髭のドミティウス(ネロ帝の父)などとも呼ばれます。古代ギリシャでは父の名を付けて呼ばれ、ペーレウスの子アキレウスとか、ソプロニスコスの子ソクラテスなどと呼ばれます。またヘラクレイダイ(ヘラクレスの後裔)とかアルクメオニダイ(アルクメオン家の人々)のように、著名な祖先の名で呼ばれることもあり、日本の農村の屋号と似ているかもしれませんね。日本でも金属探索の目的で臣籍に降下すれば源姓を賜り、光源氏とは暗い坑道で光る物を見つけることを表し、紫式部もわかっていたのですね。

 現世が全てだと考えていれば、白い目で見られようと訴訟で勝とうとするだろうし、全身全霊で世の中を変えようとするでしょう。日本人は敗戦で極端に卑屈になり、良心的な人々が増え過ぎたため、性善説的な世の中になったのかもしれません。直接見たものだけを信用し、伝聞は半分程度疑うのが無難でしょう。