感想としては、昔の人間らしい話だなと率直に感じた。当時は明治維新の最中にあり、様々な文化や文学、思想が入り乱れていた時代。その時代において、自分は何派なのかを自問自答するようなことは日常的であったのだろうと想像に難くない。しかし、現代社会において、少なくとも私自身の人生においては、自身が何派に属するかなど語り合った記憶も、話しているのを聞いた記憶もない。そうは言っても、あくまで機会がなかっただけで。じゃあそれを踏まえて、実は自分は何派だったのだろうか?とこれを機会に探ってみた。

 

 

 

 参考文献です。ほかWikipediaも見ました。

 

 

 私は、自分の内面を描く私小説をメインに、どちらかと言えば写実主義的なタイプなのかなって感じですね。ただ、自分が触れる作品として好きなのはロマン派の方ですね。自分自身が書くのは写実的で、好むのはロマン派って感じかな。タイプとしては、私小説型の自然主義派かつロマン派作品愛好家という形になるのかなと思います。めんどくさいね。勉強になりました。

 

 

 

 

 作品自体への感想としては、誰しもが経験した興味関心の移ろいを、文学を通して表現している感じでしょうか。文学に通じている人間なら、あるあるわかると共感できるのかもしれませんね。私には無理でした。そもそも作中に出てくる作品の中で、知っていたのが夏目漱石の猫だけでしたからね。学がなさすぎて論外。

 

 でも、話自体はよくわかるなあ。昔は好きだったものが、ある時を境に好きじゃなくなった。前好きだったものが、今ではあまり楽しめなくなった。逆に、昔好きだったものに久しぶりに触れたら、今でも好きだった。こういう経験は私にもあります。

 

 芥川のように文学の話は出来ないけれど。私の話で言うなら、昔は好きだったけど好きじゃなくなったものは、最近の流行りの異世界転生とか。理由としては、ロマン派の極致とも言えるのでは?と思うこの手の作品は、ロマン派は好きな私でも流石に現実感なさすぎて無理ってなった感じかなあ。特に、25歳くらいから社会復帰を目指して徹底的に自分自身を見つめ直して、ひたすら現実と向き合い出した頃から好きじゃなくなったような気がします。

 

 昔好きだったけど今でも好きなものは、ポケモンやデジモンにドラクエとかですね。幽遊白書とかハンターハンターとかワンピースとかもそうですね。多分生涯好きなままじゃないかなと思います。

 

 

 

 

 

他。

 

 厭きるのあきるを知らなかった。飽きる 厭きる 倦きると同音で3種類あったらしい。まあ全部飽きるでも意味は通じるし間違いではないのだけれど、ここを強調したい時には適切な使い分けをするのも良いかもしれない。

 

 飽きるは、読んで字のごとくもうお腹いっぱいでこれ以上はいらないという感じのあきる。堪能したあとに、もういらないといったニュアンスがある。例:いくら高級な寿司と言えども、流石に毎日食べていては飽きが来る。

 

  厭きるは、厭の字からも想像できるように辟易とした意味合いでのあきる。例:ずっと続く夏の暑さには、もう厭きたよ。

 

  倦きるは、倦の字から倦怠感のような疲れや疲労感を伴うニュアンス。一番使うのが難しいけれど、この一個の表現はわかりやすい。例:倦きずに努力する。

 

 こだわりたい時にはありだけれど、常用漢字のみで書きたい場合は飽きるしかないわけだしね。難しいところ。

 

 

 

 

語彙

 

曲折:きょくせつ。折れ曲がること。

意味はわかるし読めてもいたが、よく振り返ると自分の語彙で使う機会が一度もなかった。趣味や物の見方に曲折が起きた。というような使い方は覚えておきたい。

 

序でに:ついでに。こういう使い方はあまり好まない。自分が書くならなるべく簡素に仕上げたいので、まあ使う機会はなさそう。

 

此間:こないだ。同上。

 

感興:かんきょう。意味は興味とほぼ同じ。ただ、文中に出てくる 感興が乗らない という使い方は興味では出来ないのでぜひ覚えておきたい。興が乗らないや気が乗らないでも意味は通じるが、それよりもっと踏み込んで強調したいときには使おうかなと思いました。