「第三話(独立)」
1店舗目は千葉県柏駅の焼肉屋居抜き。
25坪家賃25万の雑居ビルの3階。
保証金150万。造作100万で初期投資がコミコミ500万円位。
井戸さんのメルマガでアドバイスを頂いた通り麦ホップの生ジョッキを売価180円とSATOブリアンさんをベンチマークさせて頂いた、シャトーブリアンがメインの「焼肉牛ヒレ」と言う屋号のお店をオープンしました。
会社員時代のOBアルバイトスタッフ数名が一緒に働いてくれて、お店が終わったあとみんなで夢を話しながらお酒を飲むのが本当に楽しかったです!今でも働いてくれている方も居ますし本当に有難いです。
初めはお客さんが少なく、近くの郵便局の局長さんにご贔屓して頂き、ノーゲスの店内で帰り際に「和田くん。大丈夫だよ。大丈夫だから。この店売れるよ!」と声を掛けて頂いたのを覚えています。
僕が不安な顔をしていたからだと思いますが、お客様に応援して頂いた事が本当に嬉しかったです。
自家製キムチを持って近くの会社にチラシを持って行ったり、ノーゲスの時は店内から外看板の電気をカチカチ(看板がピカピカ光る)やってお客さん来ないかなぁ、ってみんなで楽しく仕事をしていました。
結果的に初月は売上300万、良い月は400万くらい売れるまずまずのお店となり、
半年後に亀有駅の店舗流通ネットの牛角さんの居抜きで「焼肉わが家」と言う自分で考えた全くセンスのないお店を出店しました。
一応薄っぺらいコンセプトがあって「香ばしい焼肉屋」でしたが、歴史を積んでない焼肉屋に香ばしさが出るはずもなく、最後の方はもう女性スタッフをとりあえず全員ショーパンで働かせてました。
しかも当時、井戸さんにメルマガのQ&Aで亀有の出店を相談した時「亀有駅は渋いから止めとけ!」って言われてたんですよね、。
しかし、1号店の小さな成功を握りしめた僕は井戸さんの助言も周りの人達の意見も聞かず、自分の都合や気分の良いアドバイスだけをピンセットで摘み「オレは天才なのかも知れない。」と思うようになっていました。本当に気持ちの悪いやつです。
亀有店の家賃は50万円位。それで1日2万円位しか売れない日々が続き、直ぐに解約予告を出しましたが、初期投資と空家賃合わせて600万位溶かしました。
次こそはと居酒屋の方が居抜き物件の量が多い事からと言う理由で居酒屋を始めようと本八幡駅(憧れの一家ダイニングさんの本拠地と言う意味の分からない理由)で、
居酒屋それゆけ鮭ヤローと言うメニューがサーモンしかない尖ったと言うか自己満なお店をオープンしました。
これも全く売れませんでした。
サーモンのカルパッチョ、チャンチャン焼き、サーモンピザなど本当にサーモンしかラインナップが無かったのですが「今日どこ行く?サーモン食べに行こうぜ!」ってなりません。来店動機が無いことにノーゲスの店内で1人でそっと気づきました。
本当に立地と業態が大切なんだと身に染みました。
メニュー改善はしたのですが、本八幡店は家賃27万、月商200万位。自分が現場にフルで入ったらギリ成立する状態が続きました。
この頃資金の殆ど使い果たしキャッシュがギリギリ回っている状況の中で、追い討ちをかける様に亀有のショーパン焼肉の店長だった社員に月末の支払い前の通帳の中身400万円程持ち逃げされてしまいました。
当時は各店舗の店長に通帳もキャッシュカードも預けていて売上入金と支払いも任せてたんですよね。
従業員が盗んだお金は盗難ではなく横領になってしまうのでテナント保険も使えないので回収できません。警察に行っても横領事件は弁護士を通して告訴しないと親身に動いてくれず、結局弁護士に高いお金を出して数年かけて刑事裁判をして示談。
有難いことに本人は今でも毎月3万円位づつ返済してくれてます。(読んでないと思うけど、あの時は本当にごめんね!たぶん放漫だった僕にムカついてそんな事をさせてしまったのだと思います。)
月末の支払いが完全に足りなくなり大変情けないのですが、カミさんの両親、自分の姉、昔借金まみれだった親父が100万円づつ貸してくれて、少し足りない分はアイフルで50万位キャッシングして支払いをしました。
同時期に一号店の売上も下がり始め、会社員時代から連れたスタッフも1人また1人と離れて行きました。僕にとってはこれが1番悲しかったです。(今では戻ってきてくれた方もいるので本当に本当に大切にして参ります!)
あれだけみんなでお酒を飲みながら語り合った夢は何だったのだろうか、。
でも振り返ってみれば自分が好き勝手に酒飲みながら話してただけで夢なんて語り合ってなかったのだと反省しました。
お金も人も無くなり本八幡のお店でポツンと1人。
夕方のオープンから閉店の深夜まで働くのですが始発で家に帰るのも面倒でいつも店泊してました。
お店を止めるにもお金が掛かるから辞められない。新規出店するにもお金がないと言う、後にも先にも進めないこの状態が結局2年近く続き、
気づけば年齢も30歳を超えました。自分は天才ではなく普通以下だと分かるには十分な結果でした。
弱り目に祟り目とは本当に昔の人は良いこと教えてくれるもので、当時何故かヤクザと言うかチンピラにお店を目をつけられてしまいボコボコに殴られた時もありました。
何してるんだろおれ、。
閉店後の薄暗い店内で悔しいのか悲しいのか分からない涙が出ました。債務整理って何だろうと調べてたのも覚えてます。
そんな半ば人生を諦めてた頃、松原団地駅の知り合いの社長から譲って頂いた業務委託の物件で鶏ヤローを作り徐々に回復して行きます。
「第四話(鶏ヤロー)」
お店を止めるにも止められない、新規出店するにもお金がないと言う、後にも先にも進めない状態が2年近く続き半ば人生を諦めていた頃、
取引先の肉屋の社長さんから「埼玉県の松原団地駅で居酒屋を始めたが上手くいかない。やってみないか?」と声を掛けて頂きました。
二つ返事でお店の中を見せて頂き「やらせて下さい!」と直ぐに答えました。もうラストチャンスだと思いました。
この松原団地駅は獨協大学がある駅で1.2階建ての50坪家賃25万円のボロ一軒家みたいな居酒屋の物件で、これに肉屋の社長さんに業務委託費20万円を支払い固定費45万円。
当時は月末の支払いのあと預金残高に20万円位しか残らなくて、酒屋さんの支払いを少し遅らせて(本当にすみません!)、ホームセンターでプラスチックボードとA4の黄色紙を買い自分で商品名をそれっぽい字で書いて店内と店外に貼った。
とにかく店内を満席にしたいと思いました。
当時から鳥貴族さんが絶好調で、お店の前の鳥貴族さんが月商1000万位売ってたと思います。僕みたいな個人の兄ちゃんは低価格路線と食べ放題には絶対に手を出してはイケないと言った暗黙のルールみたいのがありましたが、客単価2000円のお店を作ることにしました。
しましたって言うかそれしか思いつかなかったし、ずっと暇なお店をやってたので、儲からなくても良いから、とにかく忙しいお店で働けたら嬉しいと思ってただけです。
均一価格だとモラル感に欠けるのでドリンクの単品価格を下げて値決めをしました。
生ビール199円
ハイボール50円
サワー、カクテル、焼酎99円
唐揚げ食べ放題99円
フード299円〜
ハイボールを50円にしたのは、ハイボールは当時原価も低いわりに生ビール位の価格で売ってるお店も多かったので、屋号は覚えて頂けなくとも「今日どこ行く?あのハイボール50円の店行こうぜ!」って、とにかく覚えて欲しかっただけです。
本当は料理で覚えて頂けるお店にしたかったのですが、そう言うのも当時は思いつかなかったです。
その頃、たまたま前職の焼肉屋を平城苑さんが買収したタイミングで、そこで昔一緒に働いていたムラ(邨井さん)と、その焼肉屋の隣の車屋さんで整備士をしていた近藤さんの会社も何故かタイミング良く倒産して、2人が入社してくれてたのがすごく大きかったと思います(あと昔から一緒に居るしんたろうね!)
その時はまだ鮭ヤローと言う屋号でしたが途中から直ぐに鶏の方が安いしお客様も鮭だから来店してる訳でないので屋号を鶏ヤローに変え(フードは普通の居酒屋みたいな感じ)引渡しから5日後にオープンしました。
2月5日オープン初日。その日は雪が降りました。
「あぁ天候にも恵まれんか」とため息が出ましたがオープン時間が近づくと20名位の行列ができていました。
お寒いでしょうにと、直ぐにお客様を店内に案内すると一階の40席程の店内がすぐに満席になった。
スタッフはムラと僕と、その前のお店から引き継いだ女の子1人と長さんと言う当時70歳のおばあちゃん。
大忙しの中「これはっ!」(イケるんじゃないか!)とムラと目が合ったのを覚えています。
嬉しくて嬉しくてたまらなく泣きながらチャーハンを作る鍋を振るった。
借金のこと、明日の支払いのこと、今までの売上のこと(ほとんどが金のこと笑)色んな想いが込み溢れました。
その後も来店は続き外にも待ってるお客様も居ましたが初日4人ではオペレーションが回るはずもなく商品の提供遅れが続き、迷惑をかけてしまったからとその日はお代を頂戴するのをやめました。
余談ですがその忙しい中、ムラに今日はお会計もらうのやめようと話したら「え?何言ってんスか?普通に取りましょうよ。」って真顔で言われた時、ムラの冷静さと強さを感じました。床までチビ伝ついてるのに。
※チビ伝とはキッチンプリンターから出てくる注文伝票のことです。
結局、初月の売上は700万。原価率は70%で利益は出ませんでしたが、徐々にムラが商品の細かい改善をして原価率も適正化、利益店舗となり遊ダイニングは息を吹き返しました。ムラくんいつもありがとうね!
特に原価率を圧迫していたのは唐揚げ食べ放題99円で、一日30キロ以上の唐揚げの仕込みを長さんと言うおばあちゃんが担当としており
ある日、仕込みが少し少なかったのか、いつもより早い20時位に欠品してしまい、それでもぞくぞくと入ってくる唐揚げおかわりの注文に、長さんがホールに出て
「本日の唐揚げもうないよぉ。頼まないでぇ。」と声を上げたら満席の店内からスタンディングオベーションが起きました。
よっしゃー!オレたちこの店の唐揚げを食いきったぞ!と、。
この時から、この出来事を唐揚げ終了タイムと名付けて毎日20時になると長さんにやってもらいました。当然、原価も下がりましたね。
ここまで書いてみたけど内容薄いなぁ、。
大丈夫かなこれ。
店内には獨協大学生しか居なかったので、そこから大学のキャンパスに居る学生数や学生寮を調べて大学のある駅に絞って出店することで徐々に店舗を広げて行きました。
何事も諦めず続けていたら良い事があると言えば簡単ですが、この松原団地店はそれを僕に教えてくれました。