「理想の一日」というものをイメージしてみた。

 

起きてから寝るまでで、

「いつ、どこで、だれと」を意識しながら。

 

で、書いたものを見直したら、

現状の80%とほぼ一緒だったので、

自分の今の幸せを噛み締めた。

 

残りの20%は、今回イメージはしたものの、

なくてもいいかな、という部類のもの。

「ストレッチ」「アート」「手芸」の時間をカット。

 

そうなると、これで理想通り。というか、いつも通り。

理想100%で生きてる。うん。最高じゃない?

 

うーん。でも、なんか足りない。

「潤い」というか「楽しみ」というものが欠落してる。

 

さっきのカットした分が、それに当たるのだろうか?

 

あらためて「理想」を見直すと、

私のそれは「無理・無駄・無意味」を嫌い、

「安心・安全・清潔」のみなのだった。

 

「無意味なこと」は嫌なので、

それをどんどん省いてきた。

が、「意味がある」「意味がない」というのも

二値的なのではないかと、気づいた。

 

つまり、「無意味」と判断することも、

私個人の「意味づけ」なのではないか、ということ。

 

「ストレッチして、何か意味があるの?」

などと問いかけがあること自体が

「意味がないならやめろ」の無意識の圧力。

 

そうすると、「ちょっと体を動かしてみたいな」とか

「ちょこっとイラスト描きたいな」

という小さな願望も、「あ、やっぱ、いいです」と

すぐに萎れてしまう。

 

「安全、安心、清潔」は良いことだと思うけど、

それだけの枠にとらわれてはいないか。

 

私の小さな好奇心や冒険心は

そこから出られないままだから、

「愉しくない」「潤いがない」のではないか。

 

これまでの私の「理想」は、

「理想という名の無機質な無難さ」で

満足させられていたのではないか。

 

いったん、理想そのものをリセットして、

「意味の有無」で判断するのもやめて、

もっと自分の直感を頼りに進んでみようか。

 

・・・うわー、怖い。

いつもとは違うこと、って怖いなあ。

想像するだけで、ドキドキしてきた。

 

「意味づけを全てやめる」ってことは、

理詰めで考える私には、大冒険なのだなあ。

 

小さい枠で生きてた人間が、全部の枠を取ると、怖い。

 

もともとヘタレなんだから、無理すんなや。

今より一回り大きい枠を設定して、

安全確保しながら進もう。

 

「いつもとは1ミリ違う、楽しいこと」をしよう。

 

ビギナーが清水の舞台から飛び降りるのは無謀。