中学の頃の口癖だった、「どうせ~」と
「自分なんか~」を、ある日、自発的に気づき、
意図的に口にするのをやめたことがある。
口癖をやめてみたら、
少しずつ気分が前向きになってきたので、
それで良しとして、これまで過ごしてきた。
が、実はその奥の「卑下目線」とか
「シニカル目線」というのは
自分の中からはぜんぜん消えていない、
ということに、先日、ハッと気づいた。
シニカル・・・皮肉。冷笑的。ひねくれている。意地悪。
*****
それは、次女と話をしている時、
「友だちが”夏休みの宿題が終わらない”って言ってた」
と言うので、私はこう返事した。
「そう言ってても、本当は、やってるかもよ」
次女は、「もしそうだったら、嫌だなあ」と顔をしかめた。
そのいっときのやり取りで、ハッとした。
「友だちの進捗はどうあれ、
自分の宿題分は淡々と進めたほうがいい」
と、本当はいいたかったはずなのに、
次女に伝わったのは、
「お友だちは、嘘をついているに違いないよ」的な
ニュアンスになってしまった気がしたのだった。
私のなにげない一言で、
次女の友情が壊れてしまったのなら心外だ。
申し訳無さすぎる。
そもそも、こんな物言いをしてしまったのは、
私が中学の頃に、そう思っていたからだ。
「自分の周りの人間は、嘘つきだらけに違いない」と。
(そんな見方なら、友だちができるわけがない)
そんな目線をまだ引きずっていたのかと愕然とした。
「相手は嘘をついているか否か」というのは、
真実かどうかを見極めていない段階では、
わかりようがない。つまり、偏見だ。
偏見を英語でいうと、「prejudice」であり、
「pre(~の前)」と「judice(正義)」で出来ている。
自分では正義の目線であると思いこんでいるが、
実は、先に決めつけているだけなんだ。
そうか、なんでも「~に違いない(偏見)」と思うと、
シニカルな性格になってしまうのだな。
もしかしたら、
「私=シニカルな性格」というのも
偏見だったかもしれない。
何事も、すぐには決めつけない。
最終判断するのは、
もっと明らかになってからでもいい。
決めつけをとことんやめてしまおう。
「シニカルな自分」と、さよならするぞ。
↑
思い込みをやめると、実は安全な場所にいると気づく。
