次女の担任の先生が
(次女の話によれば)かなり自己中なので、
教師としての資質をどうにかしてほしいぞと、
勝手に悶々とした。
けれど、自分はどうなんだよ、と顧みると、
やっぱり欠陥のある、大したことのない人間だ。
次女の教室で子供たちが毎日泣かされることと、
先生が一人でいつもピリピリしていることは、
確かに聞いていて胸が痛むのだけれど、
それは当人たちの世界であって、
私が介入する案件ではない。
子供たちも、先生も、私も、
どうやったら自分の世界が良くなるかを、
それぞれが気づいていかなくてはならない。
では、私は何に気づかなくてはならないのか。
何を基準に、どう判断していけばいいのか。
そう自問したら、急に私は、自分の中にある、
確固とした存在に気づいた。
みぞおちのあたりに、どっしりとして深みのある、
底知れない何かが存在する。
その存在感の半端ない何かは、
なんだかわからないけど、「私」だ、と思える。
その「私」がまるで占い師のように、
目の前に置かれた水晶玉に映る
さまざまな影を見ているというイメージが、脳裏に浮かぶ。
で、これまで私が「これが自分だ」と思っていたものは、
そこに映っている影でしかないと気づいた。
私が腹中の「私」を見ているのではなく、
「私」が水晶に映る私を見ている。
(視点の転換が起きた。)
こうやってあれこれ考えている私は実態ではなく、
それを静かに眺めている方が、本当の「私」だとしたら・・・。
私はなんだか、そのイメージ化した水晶が、
地球という天体と、かぶるような気がした。
地球上ではさまざまな出来事が起こるけれども、
それは、実態ではなく、影でしかないのではないか。
子供たちも、先生も、今ここでブログを書いている私も、
地球で生きている人々のあれやこれやは、
ぜんぶぜんぶ、影。
影だから、別にあってもなくてもいい、というわけではなくて、
その影をきちんと見ることによって、
多角的に自分自身を知ろうとしている「私」がいる。
影が起こす問題を解決するために見るのではなく、
自分とは何か、を知るために、見ている「私」。
さまざまな影を、ありのままに見ながら、
そうして、影の私に向かって、
「今どうしたいの?」と静かに尋ねてくる「私」。
「私」の指図で生きるわけじゃない。
けれど、これからの私は、
「私」を指針にして(意識して)生きていこう、
そう、思った。
あ、この「私」が、「大我」なのかもしれない。
あー、そうなのか。なるほどな。
「大我とは何か?」ということが
これまでの命題だったが、
実は逆で、影である私にとっては、
「大我が見ている私とは何か」が大事なのだろう。
水晶、という言葉をしたためていたら、
瞳にも「水晶体」というものがあることに気づいた。
私は水晶体という水晶で、
目の前の世界を見ているんだな。
私の水晶体は、パソコンの液晶画面を見ながら、
さかんに両手を動かしているのを映し出している。
これが、今の、私の世界なんだ。
さて、これから、どうしたいの?
はい、洗濯物を干してきま~す。