子供のころに、

「出る杭は打たれる」という言葉を知り、

自分は打たれたくないなあ、痛いのはいやだから、

絶対に目立たないように生きよう、と考えていた。


中学で、同級生2名から

イジメ(のようなもの)にあったときは、

自分がまだどこかしら「出ている」からなのだろう、と考え、

ますます気配を消すことに尽力した。


「ここに私はいません」と、

まるで”千の風になって”みたいに生きてきた。


けど、今はもう、気配を消すのはやめた。

自分の存在を肯定することにしたから。


誰がなんといおうが、

「私はここに存在している」んだ。


たたかれようが、たたかれまいが、

私は、自分の姿でいようと思った。


そうして気づいた。


「出る杭は打たれる」という言葉は、

いったいどういう意味だったのか、と。


今は、こんな風に思う。


「出る杭→打たれる」というのは、

絶対的な因果ではないのだ、と。


「出る杭」と「出ない杭」があり、

それを打つ人と、打たない人がいる。


出る杭を打つ人、

出る杭を打たない人、

出ない杭を打つ人、

出ない杭を打たない人。


また、「杭」そのものがない場合もあって、

手当たり次第になんでも打つ人もいれば、

どんなものであっても打たない人もいるだろう。


そうやって、いろんなバージョンを考えてみると、

「出る杭は打たれる」という一つの可能性におびえて、

ずっーと縮こまっていたのは、

ずいぶんと損だったなあと思う。


そもそも私は、最初から「出る杭」だったのかどうか。


そういいえば、出る杭というのは、天才とかの、

才能が非凡な人をさすのでは?


だったら、凡人の私は、何をおびえる必要があったのか。


あー、あほらしい。


どんなに胸を張っても、

身長が152センチな私なのだから、

等身大で進もう。

たとえ痛い目にあっても、涙を拭いて、また歩こう。


ところで、

私のように「打たれたくないから出ないようにしなくては」と

消極的に受け止める人もいるかもしれないが、

反対に「出る杭は打つべきだ」という風に

アグレッシブに解釈する人もいるかもしれない。


そう考えると、「ことわざ」というものの

魔力というか罪深さを考え込まずにいられない。


ことわざや格言などは、

確かに使えることもあるけれど、

すべての事例に当てはまるわけではないから、

それに縛られないよう気をつけたいものだ。