うそしか言わない「うそつき人間」と
本当しか言わない「ホント人間」の
二種類しか存在しない、と、思っていませんか?
でも、それは違うと、私は思います。
人間という存在そのものは、たいていは、
「うそ」も言えるし、「ホント」も言えるのです。
本当の気持ちがAで、そのままAと言ったり、
気持ちがAにもかかわらず、Bと言うことは、可能です。
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私は以前、気持ちの中で、Aと思い、
Aとそのまま表現したら、
友達が「あなたはうそつきだ」といいました。
なぜ、その友人は、私をうそつき、と呼んだのでしょう?
私の想像では、その友人の心の中では、
「みにもるはBと答えるのが正しいのであって、
Aと答えたら、それは間違いだ」と、思っているようなのです。
いくら私が「うそではない。Aだ」と言っても、
友人は、認めてはくれませんでした。
私は、うそつきにされました。
私は、当時の自分の思いと同じことを、正直に言いました。
だから、うそつきではないと思います。
友人もまた、本人の中での
「みにもるは、うそつきだ」と感じたことを
そのまま外に出しただけで、
これも、うそではないと思います。
この時点で、うそは、どこにあるのでしょうか。
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正直にAと言っても、信じてもらえないのか・・・。
しかたないので、
「あ、ううん。やっぱり、Bだよ。Bだよね。」と、
友人を喜ばそうと、私は、うそをつきました。
つまり、自分の心とは、うらはらの答えをいいました。
すると友人は、「ふーん。やっぱりね」とニヤリとして、
「Aといったり、Bといったり。みにもるは、信用できないわ」
とも言いました。
私は、Aと言っても、Bと言いなおしても、
どっちにしろ、その友人には、信用されませんでした。
たぶん、その友人の中では、私という人間そのものを
まったく信じてくれていないのでしょう。
「みにもるは、うそつきだ」というのが、
その友人にとっての、本当の気持ちなのでしょう。
私はもう、その人を、友と認識するのはやめました。
ずいぶんと日がたった後、その元・友人は、私に
「私たち、友達だよね?」
と、にこやかに言うので、
「・・・そうだね。私たち、友達だよね・・・」と、
私は、心の中でため息をつきながら、静かに答えると、
元・友人は、とてもうれしそうでした。
友達と思っていないのに「友達だね」と言える私は、人間です。
私のことを「うそつき」と呼んだり、
「友達だよね」と変えたりする、この人は、人間です。
玉虫色の、人間社会です。
そんなことが若い頃にあって、
一時、私は、人を信じられなくなりました。
自分のことも、見失ったりもしました。
けれど、最近、
もう少し人を信じてもいいんじゃないかな、とか
確固たる自分なんてないんじゃないかな、と
思ったりもします。
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私は、だれかが、
Aといおうが、Bといおうが、Cといおうが、
なんだって、かまいません。
どんな意見でも、個人の自由であって、
いちいちそれについて、「ホントだ」「うそだ」と
ジャッジするものではないのですから。
できれば、どんな人とも友人となれたらいいのですが
本当の友人にするならば、
私という人間をそのまま
受け入れてくれる人がいいなと、思います。
「みにもるは常に○○でなくちゃだめ」
と考える人がいても、それ自体は別に良いのですが、
一面のみを強要されるとこちらとしても息苦しいので、
残念ですが、ちょっとお近づきになりたくないです。
・・・あ、話がそれてきたかも?
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一番いいたかったのは、以下のことです。
「本当」か、「うそ」か。
それは、個人それぞれの中での、
「受け入れられる」「受け入れられない」という意味と
同義語ではないでしょうか。
心の中で、受け入れることが出来たなら、
それがその人にとっての「本当」なのでしょう。
そして、その「本当(=受け入れられること)」は、
本人の気持ちしだいで、いくらでも変動するようです。
それが、本当の、本来の、人間の姿のようです。
・・・今のところ、私個人は、そのように、とらえています。
ころころと変わるのが自然なのだ、という、
真の人間の心のありようを聞いて、
それを本当と思うか、ウソと思うかも、ひとそれぞれですし、
そんな人間を面白いと思うか、悲しいと思うか、
まったく別のように思うか、
それも、その人しだいなのでしょう。
私は、「人間って、面白いなあ」と思う日もあれば、
「人間って、悲しいなあ」と思う日もあります。
人や自分を信じられる日もあれば、
そうでないときもあって。
まったくもって、一定ではいられません!
でも、そんな自分を、それでいいんだと、思います。