先日、テレビを見ていたら、

ある高校の伝統行事の紹介があった。


ペンライトを持った全校生徒が、

真暗な体育館で、「星屑のステージ」の歌にあわせて、

腕を左右に振るという行事だった。


チェッカーズのコンサート会場みたいだが、

舞台には演奏者がいない、という、

不思議な光景に見えた。


それをやっている在校生は、

「星屑のステージ」なんて聞いたことない歌だし、

チェッカーズも知らないという。


けれど、その十何年も前に文化祭でやったことが、

毎年継承され、今にいたるという。


これを見て、ちょっと考えさせられた。


別にその学校に文句をつけたいわけではなく、

「そもそも伝統とはなんぞや」と思った。


たぶん、この行事の発案者は当時、

チェッカーズファンで、

そのときに流行した曲に振り付けを考え、

全校生徒と一致団結して盛り上がったのであろう。


その盛り上がりが良かったので、

次の年も、さらに次の年も行い、

いつの間にかそれが当たり前の行事として定着し、

そうしてここまできたと推測される。


*****


この例だけではなく、さまざまな伝統行事は、

「楽しかったから、ご利益があったから、

 地域が活性化したから、もう一回同じことしよう」

という要望が毎年のサイクルに組み込まれたような

印象を受ける。(個人の感想です)


実は私は子どもの頃から、「伝統行事」なるものに

ずっと疑問を抱いていた。

「そんなことに、何の意味があるのか?」と。


伝統行事のすべてが、

形骸化しているように思えていた。


*****


・・・けれど、伝統行事=形骸化、というのは、

私個人の見方だと、今、気づかされた。


私がそれらの行事に参加しても、

最初から「無意味だ」と決め付けていたから、

勝手にむなしく見えていただけであった。


参加して「あー、面白かった」と思えたら、

それは、意味があった、ということになる。


ようするに、伝統行事というものは、

やることの内容がどんなものであれ、

「楽しんだものの勝ち」ということだ。


そういえば、もうすぐクリスマスがやってくる。

パーティがあちこちで開かれることだろう。


隠れ仏教徒である日本人が、

異国人の誕生日に浮かれるのも変だし、

それにかこつけてデートするのも変。


けれど、イベントを楽しもう、という

積極的な意欲があれば、

盆だろうが正月だろうがクリスマスだろうが

花見だろうがマラソン大会だろうが

大食い大会だろうがガマン大会だろうが・・・

とにかく、人間は楽しめるのだ!


私は、自分自身を形骸化していたから、

すべてが形骸化したものに見えたのだろう。


つまらなくしていたのは、私だった。


いったんイベントに参加したなら、

あら捜しなんてしていないで

自分なりに楽しんでしまおう。


人生も同じことがいえる。


何をするかは、あまり問題ではない。

その時間で、その場で、楽しんだものの、勝ち。


楽しむことに、三昧に、意味がある。





(余談)

本当はこの記事を書き始める際、

「伝統行事のすべては、形骸化している。

 そんなものは、やめてしまえばいい。

 すべては諸行無常である。

 始まったものは、いつかは終わる運命だ。

 過去の盛り上がりをもう一度願うのは、

 失恋記念日を毎年やるのと同じ。」

ということを書こうとしてたんですよ。(苦笑)


なのに途中で、

「形骸化に見せかけているのは、自分の心」と気づいたので、

こんな流れの文章になってしまいましたとさ。