先日、テレビを見ていたら、
ある高校の伝統行事の紹介があった。
ペンライトを持った全校生徒が、
真暗な体育館で、「星屑のステージ」の歌にあわせて、
腕を左右に振るという行事だった。
チェッカーズのコンサート会場みたいだが、
舞台には演奏者がいない、という、
不思議な光景に見えた。
それをやっている在校生は、
「星屑のステージ」なんて聞いたことない歌だし、
チェッカーズも知らないという。
けれど、その十何年も前に文化祭でやったことが、
毎年継承され、今にいたるという。
これを見て、ちょっと考えさせられた。
別にその学校に文句をつけたいわけではなく、
「そもそも伝統とはなんぞや」と思った。
たぶん、この行事の発案者は当時、
チェッカーズファンで、
そのときに流行した曲に振り付けを考え、
全校生徒と一致団結して盛り上がったのであろう。
その盛り上がりが良かったので、
次の年も、さらに次の年も行い、
いつの間にかそれが当たり前の行事として定着し、
そうしてここまできたと推測される。
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この例だけではなく、さまざまな伝統行事は、
「楽しかったから、ご利益があったから、
地域が活性化したから、もう一回同じことしよう」
という要望が毎年のサイクルに組み込まれたような
印象を受ける。(個人の感想です)
実は私は子どもの頃から、「伝統行事」なるものに
ずっと疑問を抱いていた。
「そんなことに、何の意味があるのか?」と。
伝統行事のすべてが、
形骸化しているように思えていた。
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・・・けれど、伝統行事=形骸化、というのは、
私個人の見方だと、今、気づかされた。
私がそれらの行事に参加しても、
最初から「無意味だ」と決め付けていたから、
勝手にむなしく見えていただけであった。
参加して「あー、面白かった」と思えたら、
それは、意味があった、ということになる。
ようするに、伝統行事というものは、
やることの内容がどんなものであれ、
「楽しんだものの勝ち」ということだ。
そういえば、もうすぐクリスマスがやってくる。
パーティがあちこちで開かれることだろう。
隠れ仏教徒である日本人が、
異国人の誕生日に浮かれるのも変だし、
それにかこつけてデートするのも変。
けれど、イベントを楽しもう、という
積極的な意欲があれば、
盆だろうが正月だろうがクリスマスだろうが
花見だろうがマラソン大会だろうが
大食い大会だろうがガマン大会だろうが・・・
とにかく、人間は楽しめるのだ!
私は、自分自身を形骸化していたから、
すべてが形骸化したものに見えたのだろう。
つまらなくしていたのは、私だった。
いったんイベントに参加したなら、
あら捜しなんてしていないで
自分なりに楽しんでしまおう。
人生も同じことがいえる。
何をするかは、あまり問題ではない。
その時間で、その場で、楽しんだものの、勝ち。
楽しむことに、三昧に、意味がある。
(余談)
本当はこの記事を書き始める際、
「伝統行事のすべては、形骸化している。
そんなものは、やめてしまえばいい。
すべては諸行無常である。
始まったものは、いつかは終わる運命だ。
過去の盛り上がりをもう一度願うのは、
失恋記念日を毎年やるのと同じ。」
ということを書こうとしてたんですよ。(苦笑)
なのに途中で、
「形骸化に見せかけているのは、自分の心」と気づいたので、
こんな流れの文章になってしまいましたとさ。