ちょっと前の記事「尊敬する人 」の最後に、

下記のことを書いた。


> 「失敗=世界の終わり=身の破滅」

> って考えてた自分を発見。

> いつから、こんな思いこみがあったんだろう?


しばらくしたら、答えが下りてきた。


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中学生の頃に、こんなことを考えていたのを思い出した。


日頃から素行の悪い人が、

ふと、1度でも良いことを行ったときに、

「案外、イイヤツじゃん」って思ってもらえる場合がある。


一方、日頃は素行の良い人が、

魔が差したなどの理由で、つい悪事を働いたとき、

その1度のあやまちで、信用を失い、

今までの行動すべて、チャラになってしまうこともある。


私は、偽悪的にもなれないために、

素行を良くするしかないのだが、

たった一度でもどこかで失敗したら、

「悪い」というレッテルを貼られてしまうかもしれない。


それは、身の破滅とも言える、大きなこと。


だから、自分には、失敗は許されないのだ・・・、と。


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当時は、「金八先生」などの学園ドラマがはやっていて、

ちょっとでも落ちこぼれると「くさったミカン」などと

大人にレッテルを貼られてしまうような時代だった。


「まだ食べられるミカン」か「くさっている」かの、

二つの立場しかなかった。


(「くさっているミカン」は、他にも害を及ぼすととられ、

 学校から放逐される。)


私は見た目には模範的に過ごしていたが、

心の中は世間への反逆が渦巻いていて、

そう感じる自分のことを、酷い奴だなあと捉え、

一皮剥けば、自分はくさっているのだと思っていた。


正体がばれないようにと、ずっと注意していた。


だからこそ、失敗とか、化けの皮が剥がれる、

といった局面を、極度におそれていたフシがある。


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・・・ああ、だから、失敗が出来なかったわけか。

大いに納得した。


人からの評価にビクビクするのは、おしまいにしよう。


私の中には、良い面も悪い面も、それ以外も、ある。

たくさんの面が存在する。

それを、自分がわかっていれば、それでいい。


人から見たら、私というミカンは、角度によっては、

すっぱかったり、しぶかったり、曲がってたり、

甘かったり、くさっているようにも見えるだろう。

けれど、それは、相手個人の主観であって、

私の全体を指すのではない。


どんなレッテルを貼られようと、「レッテル=私」ではない。


ただシンプルに、私が自分自身を、

「旨い」とか「好ましい」って思ってればいいんだ。


もう、失敗は怖くない。失敗もまた、味なり、だ。


よし。一件落着。

たぶんこれで、このブロックは外れたな。^^