ちょっと前の記事「尊敬する人 」の最後に、
下記のことを書いた。
> 「失敗=世界の終わり=身の破滅」
> って考えてた自分を発見。
> いつから、こんな思いこみがあったんだろう?
しばらくしたら、答えが下りてきた。
****
中学生の頃に、こんなことを考えていたのを思い出した。
日頃から素行の悪い人が、
ふと、1度でも良いことを行ったときに、
「案外、イイヤツじゃん」って思ってもらえる場合がある。
一方、日頃は素行の良い人が、
魔が差したなどの理由で、つい悪事を働いたとき、
その1度のあやまちで、信用を失い、
今までの行動すべて、チャラになってしまうこともある。
私は、偽悪的にもなれないために、
素行を良くするしかないのだが、
たった一度でもどこかで失敗したら、
「悪い」というレッテルを貼られてしまうかもしれない。
それは、身の破滅とも言える、大きなこと。
だから、自分には、失敗は許されないのだ・・・、と。
****
当時は、「金八先生」などの学園ドラマがはやっていて、
ちょっとでも落ちこぼれると「くさったミカン」などと
大人にレッテルを貼られてしまうような時代だった。
「まだ食べられるミカン」か「くさっている」かの、
二つの立場しかなかった。
(「くさっているミカン」は、他にも害を及ぼすととられ、
学校から放逐される。)
私は見た目には模範的に過ごしていたが、
心の中は世間への反逆が渦巻いていて、
そう感じる自分のことを、酷い奴だなあと捉え、
一皮剥けば、自分はくさっているのだと思っていた。
正体がばれないようにと、ずっと注意していた。
だからこそ、失敗とか、化けの皮が剥がれる、
といった局面を、極度におそれていたフシがある。
****
・・・ああ、だから、失敗が出来なかったわけか。
大いに納得した。
人からの評価にビクビクするのは、おしまいにしよう。
私の中には、良い面も悪い面も、それ以外も、ある。
たくさんの面が存在する。
それを、自分がわかっていれば、それでいい。
人から見たら、私というミカンは、角度によっては、
すっぱかったり、しぶかったり、曲がってたり、
甘かったり、くさっているようにも見えるだろう。
けれど、それは、相手個人の主観であって、
私の全体を指すのではない。
どんなレッテルを貼られようと、「レッテル=私」ではない。
ただシンプルに、私が自分自身を、
「旨い」とか「好ましい」って思ってればいいんだ。
もう、失敗は怖くない。失敗もまた、味なり、だ。
よし。一件落着。
たぶんこれで、このブロックは外れたな。^^