猫型ロボットのドラえもんは
日本中で大人気の漫画だ。
ドラえもんは、いつも小学生ののび太の側にいて、
困ったことがあれば、未来の秘密道具を出してくれる。
もしドラえもんが、
「ぼく、ドラえもんです」ではなく
「ばく、神様です」と言ったら・・・。
人(=のび太)は、神様(=ドラえもん)にお願いする。
神様は、直感(=道具)を与えてくれる。
けれど、人によっては、それを上手に使いこなせない。
となると、道具そのものに責任があるではなく、
道具を使いこなせないその人間の力量が問われる。
神様ポケットから道具が出てこないとき、
人は神様に供え物(=どらやき)を与えないだろうか?
優しい人ならば、たとえ道具を貸してもらえなくても、
神様に供え物を与えるだろう。神様を愛しているから。
しかし、道具だけを欲しがる人は、
神様に感謝もしないし、供え物もしないだろう。
もし、供え物が欲しい神様だったら、
供え物をくれない人には道具を貸さないだろう。
一方、人を愛している神様は、
供え物があろうがなかろうが、道具を貸し続けるだろう。
つまり、私が言いたいのは、
道具があろうがなかろうが、
供え物があろうがなかろうが、
神様が人を、人が神様を愛していれば、
一緒にいるただそれだけで、
十分幸せだということだ。
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話は少し変わるが、
もしドラえもんが自分を神だと言い出したとき。
漫画「ドラえもん」の中だけで、
ドラえもんは神様として生きることになる。
けれども、その本を手にして読んでいる読者や
その漫画を描いている漫画家は
ドラえもんが神だと言っているストーリーを
見つめているだけであって、
ドラえもんが自分の神だとは思わないだろう。
ただ、漫画そのものを楽しむだろう。
というか、そういう楽しみ方を、漫画家は望むだろう。
二次元(紙媒体)がいくら「自分が神様だ」と唱えても、
三次元(今ここの場所)では、通らない寸法だ。
もし、紙に描かれているドラえもんが、
真の神様を見つめることが出来るとしたなら、
それは、自分を書いてくれる漫画家をこそ
本当の神様だと思うだろう。
なぜならドラえもんの行く末は、
漫画家が決めることだから。
で、その漫画家は、
どういう神様を信じるかというと、
もちろん自分の作品のドラえもんそのものではなく、
ドラえもんという話を直感で書かせてくれる
自分よりさらに上方の、見えない存在を神様と呼ぶだろう。
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こうやって書いてみて思ったが、私は、
道具があるかないか、ということより、
単に、上の次元の存在を
神様と呼んでいるのかもしれない。
そして、その上の次元を想像することは出来ても、
認識することはかなり難しい。
旧約聖書では、エホバ(あるいはヤハウェ)が
自分のことを神と呼ぶらしい。
けれど、それは、やっぱり紙媒体での話だ。
だから私は、聖書そのものを神だ、などとは思わない。
ドラえもんが自分を神だと言った時点で、
その漫画本は神様になるか?・・・いいや、なりはしない。
私は、読書が好きだし、本によっては、内容に感動する。
けれども、もし、何処を尊敬の対象にするかといえば、
その本の作者に直感を与えた見えない存在に対して、
畏敬の念がわき起こる。
本を読んで、心が震えるのは、
本を通して、私にもその直感のイメージが伝わってくるときだ。
「神様」という書き言葉が、私を感動させるのではない。
雷のような直感を受けたその作者と同じ体験が、
読者の私にもビリビリと届いたときに、
「やはり、神はいるのだ」と思えてならない。
私の神様は、主に書籍によって、
私に直感を与えてくださる。
この直感をどう料理するかは、
私の力量にかかっている。
雷のような直感を受けるたびに私は、
その体験をいつもブログに書くけれど、
ブログの読者の方にもその雷が伝わると良いなあ、
と、いつも思っている。