SMAPの木村拓哉さんは、

さまざまなドラマに出演している。


そして時々、バッシングを受ける。

「どんな役をやっても、キムタクになってしまう」と。


でも私は、そんな彼を、素晴らしいと思う。


というのは、私は、

演技をしようと思っているわけでもないのに

その場その場で演技をしてしまうことがあるからだ。


たとえば私は、

まだスターバックスに行ったことはないのだが、

もしそこに足を運んだときは

「まったく物を知らない田舎者」という

勝手な自分設定に入り込み、

店内を不安げにキョロキョロしたり

必要以上にたどたどしい注文をするに違いない。

それは、明らかに「私」ではない。


本当は、日本語をもっと上手にしゃべれるし、

さらに大舞台の上でもないのだから、

単なる飲食店に入った人として

さりげなく行動することは可能なはずなのに。


あるいは、PTAの集まりとかでも、

「消極的で不参加型のお母さん」

という設定をうっかり自分にかぶせてしまって、

会議中、うつむいて全てをやりすごそうとする。


その場でどんなに良いアイデアが浮かんでも

「発言はしないぞ」という態度を崩さないのは、

自分で作った枠に、はまりすぎている。


出来るなら、いつでもどこでも、

「私自身そのもの」という態度でいたいのに、

どこかで見たような誰かの仕草を持ってきて

安全牌のように真似して使ってしまう。


私は、私そのものであればいいのに、

良い妻、良い母、良い隣人、良い嫁などといった

世間的な枠をどこかで適用しようとする。

そうして無理をしてしまうことが多い。


そんなつまらない枠は、

金輪際すべて捨ててしまいたい。


さりとて、「傍若無人な私」だけを外に見せるのは、

当然、かっこわるいと知っている。


一応ここまで生きてきて色々学んだのだから、

学びを吸収して出来た今の自分というものを

上手に生かして表に出していきたい。


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これらのことは、着ぐるみとして例えることも出来そう。


つまり、クマの着ぐるみを着たとき、

上っ張りのクマとして(自分を殺して)生きるか、

クマの着ぐるみを着た私として生きるか、だ。


木村拓哉さんは、クマの着ぐるみを着ても

「ああ、木村さんが”中の人”だな」

と周りがわかるような演技をしている。


で、世間は、そんな彼に「クマに徹しろ」と言う。

けれど、百歩譲ってクマに徹したところで、

そこに役者魂は込められないのではないか?

単なるクマを求められるなら、

それは木村さんでなくても良いということになる。

野生の熊にクマの着ぐるみをかぶせればいい。

でもそれでは役者が、

クマの着ぐるみを着る甲斐がない。


それと同じように、

どんな着ぐるみをかぶろうと

「中の人は、みにもるだな。みにもるらしい動きだな。」と

周囲がわかるような生き方を、私はしたい。


私はこれから、自分の「中の人」を探究する。


それが、本当の私の神髄だから。