事実と現実は違う、ということがわかった。


事実は、誰も疑いようのない本当のこと。

例)国籍。性別。年齢。身体的特徴。など。


が、現実は、人によって違う。

Aさんは腫瘍がある。毎日憂鬱だ。←Aさんの現実

Bさんは腫瘍がある。穏やかな気分だ。←Bさんの現実

Cさんは健康体だ。毎日憂鬱だ。←Cさんの現実

Dさんは金持ちだ。毎日幸せだ。←Dさんの現実

Eさんは金持ちだ。毎日不幸だ。←Eさんの現実


腫瘍や財産などの有無は客観的に見て事実だが、

幸せを感じているかどうかは、その人にとっての現実。


現実は、その人のフィルターを通して、

事実に色を付けているということになる。


私は子どもの頃、他者の現実に振り回されていた。

「お前はこのように生きるべきだ。」「こうしてほしい」と。

他者の現実は、人によって違う。

Aさんが望むときはAさんの現実のために動き、

Bさんが望むときはBさんの現実のために動いた。

私の当時の現実は、

「他者が思うとおりに動くことが、私に与えられた人生」で、

あきらめる、というのが現実だったように思う。


他者から離れて、ようやく、事実を知った。

事実というのは、元々「色」(先入観)が無いのだ、と知った。

色のない人生のすばらしさよ!

どうとでも、自分自身の色が付けられるではないか。


人は「孤独はつらい」と言うが、それもまた現実の一つだった。

ひとりになって「孤独も楽しい」という現実を、私は手に入れた。

さらに、留学生活で、

「ひとりで寂しいときもある」という現実も知った。

現実というのは、1人の中にも色々ある。混在する。


現実に悩む人に、事実を見よ、と(偉そうに)言ったりもした。

けれど、ある人は、

自分の中のたった1つの現実こそが事実だと言い張り、

私の意見になど耳を貸すことはなかった。


なので、「私の意見は、価値がない」という現実を

自分の中にうっかり構築したこともあった。

が、もう自分のことは責めない。

自分を責めて、何になる。

そんなつまらない現実は、即刻、壊してやる。


私は、事実を見据えながら、

自分が幸せを感じる現実を、これからずっと構築し続ける。


世の中の人は、自分で作った現実の中で苦しんでいる。

でも、自分の現実を変えられるのは、自分しかいない。

私の現実を変えられるのは、私しかいない。

その人の現実を変えられるのは、本人しかいない。


他人の現実と、自分の現実が違っていても、もう気にしない。

他人の現実は、その人のものとして尊重はするけれど、

振り回されはしない。


事実は当然、受け容れる。

さらに、自分の現実は、自分で作る。(←これが自己責任)


事実と、自分の現実と、

他者の現実の、3つの折り合いをどうつけていくか。

それが私の、これからの生き方の目標ということにする。