「さあ、今から何をしても自由です」
と言われたら、何をするだろうか。
仕事をしたければしてもいいし、
したくなければしなくてもいい。
遊んでもいい。昼寝してもいい。
手元には全ての道具がそろっているとして。
他の人は大喜びする場面だろうが、
私はいつでも「自由」という言葉に
ビクビクしてしまうところがある。
というのは、「自由時間」に好きなことをすると
「それはダメ」と言われることが多かったので、
「なんだ。結局、自由ではないじゃないか。」
とふてくされるはめになったからだ。
世間で言う自由行動と、
私の思う自由行動はどうもズレがあるようだった。
学校の先生の言う自由行動とは、
たいてい元気に外で体を動かすことであり、
教室で静かに本を読むことを選択すると、
本を取り上げられ仲間と遊べと強要される。
だったら最初から
「外遊びしなさい」って言えばいいじゃないか。
まったくもって、怒られ損である。
また、「今はゲームしてもいいよ」と言われて
「ううん。本を読むよ」と返事をすると
「なんでゲームしないんだ!」と怒られたり。
ああ、もう。日本語がおかしいだろう。
ゲームをして欲しいなら、そう言えばいいでしょ。
選択肢の幅があるようでいて、実は狭い・・・。
そんなことが多かったので、
「自由にしていいよ」と言われるたびに
「怒られるかも。罠なんじゃないか?」とさえ思う。
「自由にしなさい」と、命令にも聞こえる。
命令されると、何をするにしたって嫌になる。
だから、だんだん自由という言葉が嫌いになる。
自由のはずなのに、束縛に感じられる。
で、年をとってわかってきた。
Aさんが「自由にしていい」というときは、
Aさんの中の「自由」のカテゴリの中にあるものを
選択しないとAさんは激怒するのだ、と。
Aさんの「自由」とBさんの「自由」は違う。
制約のある「自由」なんて。そんなのは、不自由だ。
相手が何を選ぼうが容認するのが自由ではないか?
私はもう人間の誰かが言う「自由」を、
そのまま鵜呑みにするのはやめた。
あなたたちは、自由と言いながら、不自由の中にいる。
あなたがたの「自由」のカテゴリの中に、
私のやりたいことが入っていないのだ。
アディオス、アミーゴ!
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神様は私に「自由にしてよい」とおっしゃる。
神様のおっしゃる自由には、制限が何もない。
けれど神様、私は今、不自由の中にいます。
どうぞ、解放してください。
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いや、束縛しているのは
私自身なのだ。神ではない。
私は自分の中にある「自由」のカテゴリを
もう一度見つめ直す。
うーん、「読書」「ブログ」くらいしかないぞ・・・。
選択肢、少なすぎ。まずは、ここを広くしないとなあ。
「他者の自由を許す」度量はあるのに、
「自分の自由を許す」度量が少なすぎる。
うう、早くこの枠を取っ払いたい。壊したい。
自由という言葉が消えてしまうくらい、自由でありたい。